感情の炎
大昔の日本。
ある村に、一人の僧侶がやってきた。
旅から旅の生活だったが、その村が気に入ってそのまま居ついた。
村人たちもその僧の人柄が気に入り、村にいてほしくてお寺も建てた。
このまま時が過ぎ去ればいいのに、と思えるくらい平和な時間が流れた。
しかし、時代の流れはそれをゆるさなかった。
室町幕府が倒れ、群雄割拠の戦国の世となった。
良くも悪くも日本全体を監督するところが消えたので、世は混乱した。
そういう世にあっては、たまたま自分の領地の君主ができた人物であればラッキーだが、これがリーダーの資質のないようなバカやただの強欲、血も涙もない領主だったりすると、農民たちにとってこれ以上の不運はなかった。
僧が住むようになったその村の領主は悪政を行い、領主や地主・貴族たちに都合の良いことばかりし、農民には重い税を課した。
僧は心を痛め、できるだけの努力をしようとした。
宗教指導者として村人たちの心に寄り添い相談に乗り、役所(あるいはその村と領主を繋ぐ庄屋や小地主など)に現状を訴えて、せめて凶作の年には税を下げてもらえるよう嘆願した。
僧は村が良くなるための協力を惜しまなかったが、そういう「正当な手続き」を絶対に逸脱しなかった。そこは実に宗教者らしいが、そんな心づくしが価値観の違う宇宙人のような悪王に通じるはずもない。
訴えは聞き流されるどころか、年貢が払えないと村の美しい娘を引っ張って行って領主の性処理に使われた。ここに至って、村人の我慢も限界にきた。百姓一揆を起こそうというのである。もうこうなったら戦うしかない、と。
僧は大好きな村人たちからこれを聞いて、たいへん悲しんだ。そしていさめもした。天は必ず地で起きることをすべて見ている。必ず、すべては天の意志通り落ち着くべきところに落ち着く。我々は彼ら(権力者)と同じになってはいけない。同じレベルに落ちてはいけない。戦って命を奪ったり傷付けたりするべきではない。
何より、剣を取る者は剣によって滅びることになる——。
僧に説得されても、村人たちの怒りは収まらなかった。村人たちは僧のことは好きだし尊敬しているが、事態がここまでになった以上たとえ僧の頼みでも戦うのをやめるわけにはいかない、と。
僧は悲しみ、どうにもならないことを悟りひっそりと旅に出た。そして二度とその村に彼が現れることはなかった。
その地方一帯の別の複数の村々も考えは同じだったため、結託した彼らの軍勢は成人男性1万人を数えた。武器は鍬や鋤にすぎず正式な武装をした権力者の兵には不利ではあるが、数なら勝負が可能な状態となった。
そしてつに、戦いは行われた。頼りない武器に戦闘訓練を受けたわけでもない農民側は多数の犠牲者は出したが、辛くも勝利をおさめた。
もちろん時代の趨勢は、勝ったとはいえ無学な政治の素人を長くのさばらせておくほど寛大ではない。その農民支配は一時的なもので、じきにまた別の戦国武将に敗れ、吸収されることとなる。
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今、安倍元首相を銃撃した山上容疑者の話題や、その流れで明らかになった旧統一教会の実態についての報道が過熱している。筆者は、今紹介した百姓一揆の話と、現代のこの状況が酷似しているように思えるのである。
社会学者の古市氏・元大阪府知事で弁護士の橋下徹氏・爆笑問題の太田氏あたりが、感情論で世論が行き過ぎてしまうことを懸念した、教会擁護とも受け取られかねない弁論を展開している。
私は、先ほどの話の僧と彼らが似ている、と思うのだ。確かに、正論というか論理的には彼らの言っていることが正しい。だがその正論は、人を救わないことがある。
●僧の正しい意見が農民の役に立たない理由その①
我々人間は、同じ人間であっても個が違えばまったくその抱く宇宙が違うということ。まったく異質な精神世界をもつということ。
いくら僧や農民側が上品にエレガントに「暴力に訴えず紙に訴状をしたためて出し続ける」という行為をしたからといって、権力者側は人を人とも思っていない。舐められるだけである。残念だが「話せばわかる」「尽くした誠は通じる」ことはゼロとは言わないがまずないと思っていい。
徳川家康の名言も残っている。『農民は生かさぬよう殺さぬよう』。そんな考えで接してくる相手に、「領主様も人間。同じ尊い命。真心を尽くして訴えていけばいつか分かってくれる」なんてどこまで人がいいのだ?
あなたは、こちらを殺そうと攻撃してくる人間に「暴力は良くない。話し合おう」と言い続けますか? 防御も攻撃もせず、そう言いながら刺されますか? 僧の言い分は高度で正しいが、庶民に言うのは酷である。
特に、払えない年貢のカタに娘を(嫁としてならまだしも性奴隷として)連れていかれた親に向かって「それでも絶対暴力はいけない」と言うのは説得力ゼロである。
●僧の正しい意見が農民の役に立たない理由その②
人間は、感情の生き物である。
確かに知的生命という一面もあるが、知よりも勝るのが「情」である。愛、と言ってしまうとそこにややこしい要素が入り込んでくるため、「情」という言葉だけ使うことにする。
百姓一揆が起きることとなった原因は、大きな感情のうねりのせいである。
そのうねりは、高度な倫理観に照らせば決して褒められたものではない側面もある。そこを突かれたらハイ私が間違っています、と言うしかない。でも、それでもそこを譲ってしまったら、生きていたってしょうがないという気にさせられるのだ。ここでお腹の底から湧き上がってくる衝動に身をゆだねないと、それをしない選択をした余生など価値があるのか、という気にさえなるのだ。
農民たちには、あのタイミングで立ち上がる以外の選択肢はなかったのだ。それは、起こるべくして起きた。思考レベルでは「どちらを選ぼうか」と考えられるような錯覚に陥ることができるが、そんなのは思考の遊びに過ぎず、どうしたって戦っていたのだ。
僧は、倫理観が高すぎた。それでかえって、農民たちと心が離れた。僧にはどうしたって「いくらひどいことをされてもそれをやり返すのはダメ」というところは譲れないからだ。だから、決別するしかなかった。僧は、一緒になって怒ってやれなかった。武器を取ってやれなかった。
昔の洋画で『ミッション』という映画があった。未開の国にキリスト教を広める宣教師の話で、本国からの指示と現地の人たちを大切に思う心との間で、二人の司祭が葛藤し別々の答えを見つける話である。
詳細は省くが、虐げられる植民地の部族のために武器を取って戦うキリスト教の司祭と、最後まで武力で抵抗せず、銃で撃たれても無抵抗を貫き死んでいった同僚の司祭とが対照的に描かれている。その作品的にはどうも「後者が正しい」と言いたげな雰囲気が漂っている。最後武器を取って戦った司祭にも最後死の瞬間「オレは間違っていたのかもしれない」風な表情をさせている。
筆者はまた大胆なことを言うが、農民の味方である。武器を取って戦う側の意見である。
●人は感情の存在である。
知で情を殺しても(たとえそれが倫理的に正しくても)、その結果自分が精神性が高いと誇れてもあとあとそれ以外何が残るのか?
道を外すかもしれないが、それでも私は情に従うべき、と思う。その結果失敗しても、それは学びとなる。肥しとなる。死んだら(社会的にペナルティを受けたら)学びも肥しもないじゃないか、と言うかもしれないが、別の人生に持ち越されるのでマクロには問題ない。まぁほとんどの人は自分の今の人生しか見えてなくて「死んだら終わり・社会的に堕ちたらジエンド」と思っているので、分かってもらえなくて結構だが。
だから、私はこの機会に旧統一教会問題は、声を荒げて大いに語らってもらったらいいと思うのだ。そうなって然るべきほどのことを、彼らはずっと物陰からやってきたのだ。私も過去、その片棒を担いだからこそ、その悪質さが分かる。
今必要とされているのは、僧ではない。彼らは正しいが、良くも悪くもその目指すところは現状維持である。その世界を安定して保たせることである。
確かに方法はちと野蛮かもしれないが、何より「情」を一番にした結果、今の世論の盛り上がりがあるのである。これを危険視しダメというのは、言い換えたら「この世界を変えようとしなくていい」と言ってるのと同じなのだ。
役所に書類を送ったり、電話相談口でしゃべることでは世は変えられない。そもそも変える気がないから流すだけ。ならば、正攻法以外と必然的にはなる。こうなるのも、権力者の自業自得である。
だから私は、危ないと水を差さず、世論を見守っていこうと思う。そして、できたら血が流れない革命のほうがよいが、大多数の抑圧された庶民が「幸せに生きたいんだ」という感情にフタをせず出すことで多少の問題が起きようが、それも致し方なしと思う。
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