宗教でもスピリチュアルでもどうにもならないもの

 僧侶(仏教のお坊さん)が、17歳の未成年と性交して捕まったというニュースがあった。日頃、未成年(女子高生や女子中学生)と知りながらエッチして逮捕され「未成年とは知らなかった」という見苦しい言い訳をするのがあるあるパターンだが、大体は一般サラリーマン(または管理職)だ。宗教者というのはちょっと珍しいパターンかと思う。まぁ、氷山の一角という風にも言えるが。



 古来より、宗教の最大の敵は悪魔でも悪霊でもなく性欲であった。

 僧になろうと山に登り修行に明け暮れ、5年を頑張っていっぱしの僧と認めてもらい下山したその時、山のふもとにあった遊郭で5年女に触れなかったアソコを全開放してしまうケースが少なくない。これじゃ、何のための修行だったのかよく分からない。また、位の高い高僧は政治的にも権力があり、それがあるがゆえに女が思い通りにできてしまうので、陰で好きにしまくっていたようだ。

 キリスト教はそれに輪をかけて問題である。一般信者は関係ないが、古来カトリックという宗派で神父や尼さんになってしまうと、霊的にイエス・キリストと結婚したという建前になり、もう結婚しているのだから現世でもう普通の結婚が出来なくなる。男性の場合は女性格の聖霊である。父子精霊は違っていてもひとつ(三位一体)らしいので、実質そんなことは言葉の遊びに過ぎない。

 貞操を守るということになれば、誰ともエッチできない。問題が起きるのを防ぐために、神父が暮らすような場所は同性しかいないようにした。異性としての女性を、間違いが起きないように存在を排したのである。

 だが、そんなことをしたってダメなことは皆さん想像がつくだろう。



●人は、生物的欲求をゆがんだ形で押さえつけても、最終的には勝てない。

 どれだけ耐えられるかの個人差があるだけで、いつかそのツケを払うことになる。

 神父の場合は、異性を環境から排した結果同性愛(少年愛)が増えただけ。根本的な解決はできないのだ。



 もちろん、こっそりうまく女を手配した知能犯もいるだろうが、真面目に掟を守っていてもそのできる範囲の中で「何とかしてしまう」のが人間のさが

 現代の刑務所だって、あるでしょう。男性と女性を完全に分けているから、男性刑務所ではとりわけ「女性的な受刑者が餌食になる」というのが。

 人類は、ひとつ大きな勘違いをしてきた。

 宗教やスピリチュアル・あるいは倫理道徳を通して、人は内的・精神的成長を遂げられるものと考えられてきた。平たい言葉では「人格者になる」「高い精神性をもった、悪の要素のない間違いを犯さない人間になる」ということだ。

 そしてそこに、「性的にも間違いを犯さない」という一項が含まれる。つまり、人格者であること、立派な人間であることイコール性欲を完全コントロールし、決してそういう過ちは起こさない、と皆考えるのだ。

 だから、悟り人や聖者・教皇や高僧を見ると人は「さぞかし立派なお方なんだろうなぁ=我々俗人と違って、性的な煩悩は抱かないんだろうなぁ。間違っても個室でAV見てオナっているところにドアを開けられて慌てる、なんて無様なこととは縁がないんだろうなぁ」と考えてしまう。



●宗教やスピリチュアルによって、人間の性的欲求が克服されたりすることはない。

 健全な、合法な場面での範囲を超えた、犯罪となる(あるいは好ましくない)性欲の満たし方もどうにもならない。



 できないのに、できると思って頑張る人がもっとも不幸な人種である。

 女性のことが心にチラつく僧侶が、煩悩を振り払うべく何時間も滝に打たれたところで、ただ冷たいだけである。おかしな達成感はあろうが勘違いしてはいけない。水行であなたの煩悩は1ミリもなんとかなってはいない。

 皆さんは、風邪をひいた時には風邪薬を飲みませんか? まさか胃腸薬を飲んだりしませんよね? ちゃんと、対応するものを選ぶじゃないですか。



●性欲を克服するのに、宗教やスピリチュアルは適していない。

 風邪なのに胃腸薬を服用するようなもので、その頑張りには意味はない。



 さっき言った人類の勘違い。それは宗教やスピリチュアル的教えがカバーする範囲の中には、「性の問題でまったく過ちを犯さない人になること」があるという考え。

 確かに、歴史上伝え聞く範囲で、性欲など完全克服したと思われる(でも実は誰も24時間毎日その人に張り付いて見ていたわけではない)人物はいる。でも、私はあえてはっきり言う。



●個人差というものにすぎない。人生体験のバリエーションの豊かさ、というだけ。



 筆者は、ここでずっと「この世界の存在意義は、あらゆる可能性を体験し尽くすこと」と言ってきた。ならば万人に一人か二人位は、性欲を理性で克服したと見える人間もいていいことになる。それはその人がすごいとか立派とかではなく、持って生まれた能力であり、ギフトである。伸ばすとか訓練できるという種類のものではない。あとの可能性としては、生まれつきそういう欲求が欠落している場合もある。

 だから、私に言わせると人並みに異性に対する性的欲求のある者が、宗教教育やスピリチュアル教育で「心が豊かになった」としても、それとこれとは別で、なんら欲求の前には無力には変わりないのだ。

 そもそも、生物と宗教というものは相性が悪い。動物のように100%全開で生殖に没頭できず、余計なことを考えるからだ。そう考えると、知的生命というのも悲しい言葉で、「知的」であることと「繁殖する生命」ということとが、必ずしも相互補完しない。それどころか。人間が「知的だ」と偉そうに考えたことが縛りとなって、人類は生き物としては動物よりも不幸な状況にある。



 冒頭に紹介した僧侶を擁護する気はない。悪いことは悪い。

 でも言いたいのは、僧としていくら道を究めたところで、生物としての性の衝動に対しては無力であるということである。

 もちろん、異論も想定している。ふたつのケースがある。



①その人に、強烈に愛する人がいる場合。たとえば愛する妻への愛が強くて、よそで別の女性関係を持つなど考えられない、という状態。これは確かに理想。

 でも、独身者や配偶者に満足していない者・仲の冷めきった者は手に入れられない境地であり、選ばれし人しかそのような心境になれない。あと、残念なことだが時間というものの経過によっても、愛情は変化し得ることも忘れてはいけない。

 全員が努力によって等しく獲得できないような境地は、救いではない。



②ガマン。その一言。

 ここで間違いを犯せば、妻や子どもはどうなる? 自分だって残りの人生、辛いことになると考えるなど、必死に行為の結果を考えることで思いとどまろうというもの。ゼンゼン立派な境地などではなく、単なるガマン大会である。



 要するに、性の問題で間違いを起こさない人というのは、誰よりも愛する人がいるかガマン強いか、とっさの瞬間にその先の人生まで考えたソロバンをはじけるかどうかだけである。

 倫理・道徳的に「相手もひとつの人格」とか、そんな上等なことを考えて思いとどまれる人などほとんどいない。99%はたまたま思いとどまれるような外部干渉が入ってくれるか(人が通りかかるとか)、バレた場合のことが頭をかすめるかという「消極的・自己中心的理由」による思いとどまりである。



 もう、僕たち生き物(動物の仲間)なんであきらめてください。

 倫理・道徳や法を犯すレベルの行為は、その人物がなにかしらの抑圧を受け続けたからであって、ならば翻ってこの世界における性教育や性との向き合い方を、社会全体としてどうしていくのかを考えるべき時である。

 この世界は、ゲームだと私は言ってきた。ゲームであるからにはルールがあり、それを守らないとゲームで勝利できない。

 今ある法律や、良識ある人間として守るべき一線は守らねば、今ある肉体をもって生まれてきた自分ゲームで成果をあげられない。筆者が今日のような記事を書いたからといって、どうせ勝てないんだから好きに解放したらいいぜよ! と思っているわけではない。



●なんとかできる、という思い上がりを捨てること。所詮は生き物である限り性衝動の前には無力に近いと認める。

 人格的精神的に成長したと思い込んだ人物が、「性欲も支配できる」と思うことが一番の魔境である。それよりも、できないんだと潔く認めてしまった者のほうが、いざという時に試練や誘惑をうまく避けることができる。



 逆説的だが、できないと認めることで逆に強くなれる。問題をかわすすべを得るのである。

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