教養とは何か

 今回のテーマは『教養』についてである。

 教養ってそもそもナンデスカ?

「一般教養」という言葉がある。大学を出る人の割合も多いので、苦い思い出とともにこの言葉を思い出す人もいるだろう。学生によってはほんのちょっとくらいしか興味がないのに(場合によってはゼンゼン興味がないのに)単位取得のためにガマンして講義を聞く、なんて苦行に耐えた人もいるだろう。オイ誰だ、友人に代返頼んでフケてたなんて反則を使う人は!



 たくさん知識を知ってりゃ「教養」だろうか?

 それは違う。筆者は、教養とは「感謝」にも似ている、と思う。

 感謝とは、するものではない。自然ににじみ出るものである。そして他人に「感謝しなさい」と言われてするものでもない。言われてするような感謝はまがいものだ。

 じゃあどうすればいいかというと、人から言われないと感謝できていないような自分でなく、折に触れ自然に心から感謝が湧き溢れ、「あ、自分って感謝してるなぁ」とあとから確認できるような自分になっていればいいのである。そのために打てる手は、日々何かしら感動することであり、その感動体験が頭の中のただの「知識」と感情とを繋ぎ、橋渡しする。

 その道筋がないのに勉強して頭にデータとしての知識だけがあっても、屁ほどの役にも立たない。テストでいい点は取れるだろうが、人間関係の荒海に放り出されたら手も足も出ない人間でしかない。



 あるネット記事で、「イランという国について、その所在位置からアラブ諸国のうちのひとつ(仲間)のようなもの」と勝手に思い込んでいた人がいて、その感覚でしゃべったらイラン人に口をきいてもらえなくなった、という体験をした話があった。

 アラブ人とは「アラビア語を母国語として話す人」であり、いくら位置が中東でもアラビア語を話さないイラン・トルコ・アフガニスタンはアラブではない。

 イランは実はアラブではなくインド・ヨローッパ系の民族で、「自分たちは古代ギリシャ時代の大帝国・ペルシャの末裔であり、イスラムが生まれるはるか前からある歴史的民族である」というプライドがあるそうだ。だから、何も知らないで「イランはアラブの一部ですよね?」なんて言った瞬間にイラン人に嫌われるのだ。

 では、そういう知識を知っていることが教養なのだろうか? 筆者は、ちと疑問を感じてしまう。



●相手の機嫌を取るために、恥をかかないために、得をするために知識を得ることが真の教養と言えるだろうか?



 先ほどの「感謝」の話を思い出してほしい。得をするために、よく思われるためにわざわざ意識的に「感謝」することに価値はない、と私は言った。それと同じで、自分の利益のために(人から良く思われるために)教養を身につける、というのは何だか本質論からズレている気がするのだ。

 思い切ったことを言うが、教養とはデータとして蓄えた知識量ではない。



●どれだけ多くの感情パターンを限られた人生の時間で感じ得たか。そしてそこから気付きや学びを得、のちにその時の体験を思い出すことで成功できたか。

 それこそが、本当の教養である。一言には、知識ではなく感情体験の集積であり、情報としての知識など重要度としては二の次である。



「金田一少年の事件簿」の金田一少年は、学校での成績は悪い。

 だが、あれだけ人が殺される現場に居合わせ、無数の人間の「深い事情」や「究極の感情のもつれ」に向き合い、解決してきた。彼の頭の良さは、蓄えられたデータとしての知識ではなく「今そこにあるものだけを組み合わせて大事な情報にたどり着くこと」である。たとえると、お金をかけて高い食材をわざわざ買ってきてすごい料理を作る才能ではなく、冷蔵庫に今残っている「ありあわせ」のものだけで素晴らしいものをつくる能力だ。

 もちろん、教養というものはその前提を成す「知識」が要らないとまでは言わない。多少はないと、そもそも発揮すらできない。でも、それでも筆者は声を大にして言いたいのだ。同じ限られた時間しか生身の人間にはないのだったら、頭に知識を詰め込むよりも「感情体験」を積極的にするようにしたほうがいい。

 人間関係という戦場で武器となるのは、インテリ風の頭の良さではない。(そういうのはかえって嫌われる)感情体験の豊富さである。あなたにその引き出しがどれだけあるかで、目の前の人にどれだけ口だけではなく本当に「寄り添えるか」が決まるのだ。



 もう故人となられたが、落語家に『林家こん平』という方がいらっしゃった。笑点に出られていた時は「こん平で~す!」という元気な挨拶が筆者は大好きだった。

 笑点のメンバーはいろんなタイプの落語家さんが揃っているが、こん平さんは「インテリとは真逆のキャラ」だった。当時の楽太郎(現在の六代目三遊亭圓楽)が、経済の話とか国際情勢の話を難しい専門用語でしゃべったあとでこん平さんが手を挙げて、「わたしにゃそんな難しいことはゼンゼン分かりませんけども……」とすっとぼけた顔で言って笑いを取っていた。

 私は、教養ということを考えるときにいつもこの人を思う。教養は大事だが、まずベースとして持つべきはこん平師匠のもつような温かみであろうと。

 先ほどした話だと、イランのことをよく知らないで嫌われた人が、もしこん平さんだったら? ということだ。同じ話でも、する人間の心によって結果が違う。こん平さんなら、知識として「イランはアラブではない」という情報を致命的に知らなくても、笑顔で乗り切れたかもしれないのだ。イラン人も、国境を越えた温かい何かを感じ、それほど気分を害さない可能性もある。



●今の日本人の間違いは、国境を越えて通用する人格を磨くことを忘れて、「損をしない・恥をかかない」ための知識ばかり武器にしようとするところである。



 知識はないよりあったに越したことはない。でも、やはり大事なのはベタに「ハート」なんだということもまた、胸に刻んでおくといい。

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