仮面ライダー龍騎は別に画期的ではない

 ネットニュースで、時々「仮面ライダー龍騎」という作品を再評価する記事が出る。今朝も、あれは平成ライダーシリーズの中でも画期的だった(常識破り)だったと伝える文章を読んだ。



 この作品が素晴らしいという点では筆者も同意するが、画期的ではないと思う。

 唯一私が同意するのは、TV版が終了しない先から劇場版で「最終回を先行映画化」してしまったことだ。しかも視聴者に「戦いを最後まで続けてほしいか」「やめてほしいか」というアンケートまで取って、結果「戦い続ける」が選ばれその通りの内容に。しかし、選ばれなかった「戦いをやめる」の場合のシーンも撮影されており、実に何通りものエンディングが存在する。

 そもそもが、ラスボスの仮面ライダーリュウガというやつが「結果が気に入らなければ時を戻せる(ぺこぱみたいや!)能力を持っているので、そいつがその能力を使った結果いくつもの結果の違う並行時間軸世界が出来上がってしまうのだ。



 画期的だというのはその点だけで、実は龍騎で描かれるライダーこそが「リアルに普通」だと思う。実際にそのような力を持つ者がいたら、普通この作品の世界みたいになる。

 むしろ、この龍騎以外のライダーが異常すぎた。

 龍騎が「画期的」と言われる部分は実は画期的ではない。



①誰でもライダーになれる



 龍騎という作品では、主人公のように「正義を守ろうとする」者がライダーになるだけでなく、自分の承認欲求や世間的成功のため、果ては犯罪者(根っからの悪人)すらライダーになれる。そう、カードデッキというアイテムさえあれば、その人物がどういう人物かは問われない。特に「資格」がないのだ。

 そこが画期的とされたが、これまでがむしろおかしすぎた。正義に絶対忠実で、プライベートはおろか命すら捧げるような模範的な人間だけが「ライダーであり続けてきた」これまでの作品のほうが実はおかしいのである。



②自分の願いを叶えるため



 龍騎では、世界を悪の手から守るためという要素は薄い。薄いというか、主人公以外は「ただこちらの戦いの邪魔だから片付ける」程度のことで、世界を怪物から守ろうなどとはほとんどのライダーが考えない。

 13人の(人格は問わない)選ばれたライダーたちは、そのライダーとしての力を自分の望みを叶えるためだけに使う。しかしその望みは、13人で戦い合って最後に生き残った一人だけが叶えられるという内容。

 主人公だけが、この戦いを止めたいと願う。他の12人はやる気。主人公に近く善よりで、行動を共にする仮面ライダーナイトですら、現代の医学ではどうにもできず意識不明で眠り続ける恋人を治したい、という個人的動機であり、世界の平和などそれほど考えているわけではない。

 他の者に至っては、マヂかと思うくらい自己中心的動機である。逆に、これまでライダーになってきた人物が気のいい(お金とか自分の幸せとかに頓着しない風来坊の)兄ちゃんばかりが歴代ライダーというのも、実に宝くじ一等レベルの奇跡であると言える。



③主人公が死ぬ



 これも、実は死なないこれまでのほうがおかしかったとは考えられないか?

 特に昭和では、一人の仮面ライダーが何十・何百という「怪人」に勝ち続け、命を失わずに終われてしまう。

 時に、初期の頃のライダーなどは、敵組織の力によって改造されているのだ。その組織に(いくら敵組織の作った中でも超出来のいい改造人間であろうが)ずっと勝ち続けるなんてありえない。敵だって、データくらいは手元に残っているだろう。正義のライダーなぞ自分を改造してパワーアップさせようなんて向上心はないんだから、悪の組織のほうは色々努力するし勝てる怪人が50体に一体くらいの確率でできてもいいくらいだ。

 ここは、アンパンマンに似ている。正義は、戦っている時以外はのんきにしている。悪の側(バイキンマン)は、日夜技術開発に励み、自らを高めている。なのに勝てない、というのは不条理の極みである。正義でさえあればいい、というのは教育に悪い。子どもによっては「正義でさえあれば何をしてもいい」にすり替わる危険もあるから。

 そりゃ、強い怪人に当たれば命を失うことだってあるでしょう。でも、そこをリアルにしたら人気とおもちゃの売り上げで成り立っている子ども向け特撮番組など作れないんだろう。



 はっきりと「女性仮面ライダー」という位置づけの人物が出てくるのもこの作品が初。タックルは仮面ライダーではなく、電波人間。それ以降、555(ファイズ)や響、フォーゼやウィザードなどでしょっちゅう女性ライダーが登場するようになる。ファイズの場合は、たまたま女性が変身ギアを使ったという程度のことだったが。

 画期的と私が認めるのは、複数エンディングという点と女性ライダーの登場のみ。あとは、子ども向け番組という特性のせいで、リアルにはあり得ない世界が描かれ続けてきた、ということだ。そこを多少現実寄りに思い切って描いたからといって「画期的」と言うのもちょっとヘンだと思う。



 今、Netflix発の韓国ドラマ「模範家族」を視聴中である。アメリカ発の海外ドラマ「ブレイキングバッド」に似ていて、あるごく普通の韓国人家庭が、小さなほころびをきっかけに社会の裏組織と関りができてしまい、逃げられなくなるというもの。

 こういうのこそ本当の「リアル」なんだろうが、逃げずにリアルを描いていたらそれですべていいのかというと、それが最良ではない。



●リアルかもしれないが、娯楽にはならない。



 筆者は、問題はここにあると思うのだ。

 仮面ライダーも、子どものあこがれであり、夢だ。そうあるためにはリアルである必要がない。いや、リアルでは逆にいけない。

 大人だって、家でまで社会の「現実」を見せられたら疲れる。仕事でしんどい思いをして帰ってきてまで、リアルなど見たくない。そこは多少のウソや願望投影が入っていたとしても、ハッピーエンドや気分の良くなるご都合主義演出が見たいのだ。

 そこが分かるから、筆者とて世界の映画・漫画・文学の半分は虚構でいいと思う。この生きがたい世の中を生き切っていく上で、心の支えとして。潤いとして。

 でも、そればっかりだと人間ひ弱になる。いざという時に戦う力のない人間になる。子どもだってそうだ。正義が勝つ話ばかり見せて社会に放り出して、「正しくてもそれだけじゃ勝たんじゃないか!」と絶望させることになる。だからきれいごとではない「理不尽な現実」も、少しでいいから教えておかないといけない。



 リアルと、夢と希望という両側面をバランスよく提供することこそが、エンタメ業界の使命である。8割気分の良くなる作品を観たなと感じたら、この龍騎や「疑似家族」のようなリアルな現実バッチこいの作品も見るようにしたらどうだろうか。

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