Q&Aのコーナー第九十四回「波動を上げて問題解決?」

 Q.


 いじめ問題の解決法として、子どもの「波動を上げる」(意識を高める)ことで、周囲にそれが影響して(波動に触れることで感化を与えて)解決に向かう、というのはアリですか?



 A.


 結論だけを言うと、ナシです。 



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 実は、あとから振り返って「そういえばあの時、自分なりに好きで打ち込めることを見つけて、夢中でやっているうちに色々と物事が好転していったなぁ。いじめられたこともあったけど、いつしかそれも自然に解決していたなぁ」ということはある。

 今の話で最重要ポイントは、、という部分。

 自然にそのように導かれ、流れに乗って結果として物事が解決する場合。それならば成立する。ただし、私がナシだと思うのは——



●何か得たいものがあって、それを狙って波動を上げようとする行為。



 いやな言い方をすると、下心があってする「波動上げ」ですな。これ、最高の茶番です。波動が泣きます。

 スピリチュアルの世界では、結構この「波動」という概念はよく扱われる。幸せになる、あるいは成功をつかむための方策として「波動を上げる」ということが推奨される。高い波動でいてこそ、その波動に見合ったよいものを引き寄せるのだ、と。

 言っていることは分かるし、実際そういうこともあるであろうことは認める。でもそれは、悟りレベルの思考からはいいことだとはとても思えない。



●先の未来で行く予定になっているディズニーランドが楽しみなので、今ひらかたパーク(関西の人以外知らない?)にいて遊んでいるのに、ディズニーランドのガイドブックばかり歩き読みしているようなものである。



 今を生きろ、というのもよく言われる話である。まだ起きていない架空の未来に目を向けすぎることは、(たとえそれがよいことでろうと)今しか知り得ない私たちには軸を失ったようなもの。だから、今という時にリラックスして在ろうとし、取り組もうとするのだ。

 イエス・キリストも言っている。明日のことを思い煩うな、あなたは今日のことだけを考えておればよい、明日のことは明日自身が考えるだろう、と。今の話の「明日」というところを未来、「今日」というところを今、と置き換えればいい。

 アホな揚げ足取り防止に言っておくと、大学入試が二週間後の月曜日だとして、「ボクは今を生きるんだもんね~!」と言って二週間後の月曜日という未来のことは気にせず、結局試験の日を忘れて受験できず失敗、というのは論点がおかしい。



●あなたは「今」、その大学に受かりたいと思っている。

 今のその願いを叶えるためにも、二週間後の月曜日という時を意識し続けないとおかしい。それは「今から離れて未来を気にしてしまっている」行為ではなく、「今という時を生きているからこそ、今における心からの願いを叶えるための情報を積極的に意識している」ととらえるべきだ。



 だから、大事な予定を忘れておいて「あ、私って今ここ過ぎる~」という言葉が出てくるのは、アホで低レベルな認識だということです!

 ズレた話を元に戻すと、あなたが今ひらかたパーク(岡田准一が宣伝している)で遊んでいるのだとすれば、まさにそこを満喫するのが「今ここ」に生きること。いじめ問題に誠実に取り組むことがそれに当たる。

 せっかく楽しいのに、次に行く予定のディズニーランドの予習ばかりしていたら「あんた何のためにここにいるん?」という状況になる。冒頭の質問における「いじめの解決」がディズニーランドへ行って楽しむことに当たる。「波動を上げる」が枚方パークでのディズニー予習に当たる。



●波動というものは、「上がる」ものであり決して「上げる」ものではない。

 皆さんは意図して「上げる」ことができるものだと思っているが、実は違う。

 結果論としてあとで振り返って「上がった」ということ以上のことは言えないはずのものに対して、上げられると思っているだけでも相当な勘違いなのに、増してや何か得をするための「手段」程度に波動を貶めてすらいる、大変失礼な話なのだ。



 波動を、いじめ解決の「手段」にするな。

 それでは、いじめという問題の本質から遠ざかる。本当に据えるべき視点からズレる。解決のために必死なのは分かるが、解決ばかりに目が行く余り手段を選ばないというのはなりふり構わなさすぎる。

 もしくは、お互い傷つかず、できるだけ穏便な(楽な)方法でクリアできるにこしたことはない、という視点から出てきたアイデアだろうか? それも残念な発想だ。

 いじめ問題はいじめ問題として解決せよ。正攻法以外の解決はない。ましてや一般人が分からないスピリチュアル独自の解決法などない。

 確かに筆者は過去の記事で、「問題から逃げていい」「直接解決しなくていい」「遠回りも必要」というメッセージをしたことはある。でもだからって、単純に地続きに考えるという暴挙はいかがなものか? この世界では常にあらゆる可能性のことが起き、次の瞬間にはもう同じではないという諸行無常の世界である。そんな世界で、一つの物差しが時間・場所・個の違いを越えて適用できるとお思いか?

 すべてはケースバイケース。今という瞬間は二度とないのだ。生もので、一瞬でもすぎたら賞味期限切れになるのだ。

 自分に都合の良いものを、自分を弁護するために安易に持ってくるものではない。いじめ問題は、テクニックや「よりラクな方法」なんぞで取り組むものではない。そうやって一時は応急処置のようなものはできても、根から断てていないので早晩似た問題が起きる。根本的な解決は己の内面と相手、あるいは社会に対してガチに組み合うしかないのだ。



 家の宗教が神道であれば、神棚というものがある家があるだろう。仏教なら、お仏壇があるだろう。それに泥をぶつけたりしたら、おじいちゃんおばあちゃんあたりが激怒するだろう。なんて罰当たりな! と。神様(仏さまは)敬い畏れるもんだ。こんな神を神とも思わないことはするな! と。

 幸せになるために、人生で成功を収めるために波動という尊い神様を利用しようだなんて! ダシにしようなんて!

 波動は、常に神棚に祭って感謝を捧げる対象であり、神棚からおろして使うものではない。例えばあなた、ものすごい夢や目標が現実のものとなったら、うれしさを噛み殺せますか? 笑いを止められますか? どうやったって、出ちゃうし隠せないでしょう。また逆に、あなたの最愛の誰かが若くして死んでしまった。そんな時、悲しみに囚われる以外のことができますか? 悲しんだって泣いたってしょうがない、それであの人は帰ってなんか来ない、ならば笑って幸せに生きたほうがいい、と頭で分かっていたからって、できますか? どう頑張ったってむりでしょう。

 波動というものは、個人の努力(意図)では上げられんのです。



●波動が意志で支配できると思っているのは、大きな感情的揺さぶりに打ちのめされたことがない人である。笑おうと思っても笑えない。泣いたからってしょうがないことが分かっていても、泣くのをやめられない。そんな「意志や思考の働きがまったく意味をなさない」状況を体験したことのない人である。



 平時において、波動を上げたので良いことが起きた、と解釈できるようなことが起きるのは、実は「波動を上げたからそれが起きたというのが実際ではなく、もっと別のことに因果がある」のだ。要するに、波動が上がったからよいことが起きたというストーリーにあなたが色付けしたいだけなのだ。

 あなたが「よし、波動を上げよう!」と思ったあとで実際に気分が高揚して、その結果何かいい結果が見られたとしても、「あなたの波動が上がるという自然な宇宙シナリオと、あなたの頭脳が波動を上げようと思考したタイミングとがたまたま重なっただけ。」それを人は「自分が意図したからこうできたんだ」と見てしまう。

 大事なことなんで、もう一度言って終わります。



●波動は観察される対象でしかない。タイミング遅れて観察されるものでしかない。

 起きる先から波動を上げよう、などと支配できるものではない。

 私たちにできるのは、今よりも波動が上がった状態という触れられぬ未来を追うことではなく、今という時に憩うことである。目の前の課題に取り組むことである。正面突破が嫌で、楽な方法を考えての「波動を上げて自然と問題解決といこうじゃない!」というのは感心しない。

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