あなたの成功体験は他人の不幸の原因になり得る

 あなたの中学生時代を思い出していただきたい。

 クラブ活動は、希望者だけができる感じでしたか? それとも全生徒強制で何かの部活に加入させられてましたか?

 筆者の場合は、後者の全生徒強制加入で、帰宅部は認められなかった。それでも誰も文句は言わず、そのことで特に学校で問題が持ち上がるということもなかった。

 私も年を取りとうとう五十代に突入した。それほど年月が経っているのに、今なお部活に全生徒が強制加入させられる中学校が全国の公立校の3割以上あるという。

 思い返せば、中学時代の部活はきつかったが、当時の頑張りのおかげで得られたものは多く、体力や忍耐力、向上心が養われたことは確かである。私個人のことで言えば、結果論ではあるが当時無理にでも部活に入れられたことが「良かったのだ」ということになる。



 高齢の学校の先生やおじいちゃんおばあちゃんの口癖で、「私の若い頃には~したもんだ」というのがある。

 筆者も中学時代、ほぼおじいちゃんと言って差し支えない高齢の社会科の先生がいて、私語をする生徒や無気力で「そんなことどうでもいいや」という雰囲気の生徒に対して、よく説教してきた。

「自分の若い頃はな、行事を成功させるために暗くなるまで残って、あーでもないこーでもないと、みんなで真剣に取り組んだもんだ。そこでやっと成功できた時に、男子も女子も普段仲が良くない同士も抱き合って喜んだもんだ!(いや、それ今だと見方によっちゃ問題あるだろ……)そういったことが一生の宝になるんだ。お前たちもっとしゃきっとせんかい!」

 もちろん、相手にこちらを悪くしてやろうなんて微塵もない。相手のためによかれと思って言っている。そこは間違いない。でも——



●間違った善意は、時として悪人が最初から悪意をもって何かをしてくるのに匹敵する、時にはそれ以上の被害・不幸を生むことがある。



 いや、悪意による行為以上にタチが悪いこともある。なにせ、相手に悪意がないのでその点責められないからだ。明らかに相手が悪いなら、こちらも戦うことに躊躇を感じずに済むが、悪意がなくむしろ善意な場合、問題があったことを表沙汰にせず泣き寝入りをするケースもある。

 たとえば、成功哲学を書いた本があって、あなたがそれを買って書かれてあることを実践するが、期待したようなことはまったく起こらない。起こらないが、著者が別にこちらを詐欺にかけようなんて思っていないことは間違いないし、少なくともこの著者自身は本に書かれてあることがピッタリ合ったんだろう。私には何もならなかったが、まぁ本代と費やした時間は勉強代だと思うことにしよう——。

 今の例だと、金銭的被害は千円程度の本代で済むが、これが高額なセミナーとか個人セッションとかだったら、最後に「結局ムダだったな」と思う額はいかほどになるだろうか?



●基本、スピリチュアルや成功哲学というものは老人の昔話と同じである。



 自分はこうした。こういう考え方と発想で動いた。こういう意識で臨んだ。

 結果、それが大きな成功につながった。だから皆さんも、私の成功までの過程をトレースして動けば、大なり小なりきっと成功(幸せ)をつかめる——。

 これは、ワシの若けぇ頃にゃこうしたもんだ。それでうまくいくんだ。それなのに最近の若けぇモンときたら、どいつも軟弱になりやがって! というのと構造的にはそう変わらない。

 要するに、悪いことは言わないから自分のした通りにお前もせい! ということだ。でもこれはやっぱり「悪いことは言ってる」ので、それに気づいていない点罪深いと言える。

 このゲーム宇宙世界の核となるルールのひとつは「人の数だけ違いがある」ということだ。良い言い方だと人は皆「唯一無二」。でもそれは同時に、皆が違うのでその幸せになる過程や成功の過程は当然その人独特のものとなり、同じではあり得ない。



 人は言うかもしれない。確かに筆者さんの言う通り、人は皆違うので成功の仕方も違うというのは理解できる。でも、それでも向き合い方とかできると信じるとかポジティブに考えるとか、『大枠』ってあると思います。個人差はあっても大枠でこうしたらうまくいくことが多いですよ、っていう傾向のようなものが。それは別に無害なんじゃないですか? と。

 ある人物の例をあげよう。小説の分野で成功したある男性だ。

 彼は子どものころから文章を書くのが好きで、将来は小説家になりたいと思っていた。で大人になって各種文学新人賞受賞&デビューを狙って作品を連投するも、毎度選考を逃した。

 やっぱり、自分ではムリだったんじゃないか。ただ書くことが好きなだけじゃ成功しないのかな……と悩み、ついに書くこと自体ができなくなってしまう。

 心が折れて引きこもる彼を見かねて、彼とやり取りをする中で少し彼に目をかけていた出版社の編集員が、元気が出るならとある人気作家とアポを取り彼に会わせた。それが少しでも刺激となって彼が奮起することを願って。

 なんと、その出会いがものすごい奇跡を引き起こした。スランプだった彼はその出会いによって目からウロコの体験をし、心持ちが変わった。その後一皮むけた彼の書いた作品は、見事に賞を取り単行本化され本屋に並んだ。

 それを振り返って、彼は言う。



●もしも、世にいう成功哲学やポジティブ信仰に僕が凝っていたら、この成功はなかったと思う。だって、僕のしたことと言えば落ち込むだけだったから。

 落ち込んだ僕を見かねたからこそ、運命の出会いに導かれたわけで。もし僕がカラ元気でもだして前向きな姿勢を取っていたら、誰も心配してくれずあの出会いはセッティングされなかった。それがなかったら、今の僕はきっとなかった。



 引き寄せとかでは、同じ波動のものは引き合うという理屈で、外側がどうでも成功を信じて、良い(ポジティブな)意識でいろと勧める。そうした中で、良いものが引き寄せられてくるのだから、と。

 もちろん、そういうこともあろう。ただ、法則というほどすべてのケースでそうはならない。そういうこともあるという程度だ。

 同じ波長のものが引き合うというなら、ただ絶望して自暴自棄になっている子どもが『夜回り先生』と出会って、劇的に立ち直るという話はどうなる? よい意識でも波動でもないのに、素晴らしいものを引き寄せたのだぞ?

 このように、成功哲学に反するような「最悪の心構えだったからこそ幸せに導かれた」ような人生もあるのだ。当たり前だがこれは『その人はたまたまそれが合っていた』ということで、一般概念化や法則化できる話ではない。



 ゆえに、消費者側は賢くならないといけない。

 ネットに踊る高名スピリチュアル指導者の言葉や、書店に並ぶベストセラーな「成功哲学・幸せになるためのスピリチュアル本」などは、これすべて『それ、あなたの体験ですよね?』という程度のものだ。ひろゆき氏の「それって、あなたの感想ですよね?」みたいなことだ。

 もちろん、話としては面白いだろうし、参考になる点もあるだろう。でもそれは真理でも法則でもない。そこをおさえないと、その話は害になる。

 皆さんは、老人が「わしらの若けぇ頃は……」とか「今どきの若けぇもんは……」とか話し始めたら、にっこり笑って「ハイハイ」と聞くだろう。もちろん、かなりの程度割り引いて! そのスタンスが、スピリチュアルをやる者に必要だと思うのだ。

 そういうものを何か神託か啓示のように格上げして聞くから、いろいろと悲劇が起きるのだ。割り引いて聞かなさすぎるのだ。



 未だに、平均寿命が上がってなかなか表舞台から去らない「昔の成功体験を持ち続けた時代に合わない権力者」のせいで、自分が若い頃部活強制加入で結果自分のためになったと思うからって、単純に今の子どもが押し付けられている。もう、そんな時代ではないのだが空気が読めてない。

 我々スピリチュアル指導者も、自らの霊的な経験や学びが発信のベースになっている。もちろんこちらはよかれと思って発信しているが、時に謙虚にならねばならない。人生によっては、私の発信が役に立たないことも、かえって害になることすらあるかもしれないと。その可能性を常に頭においてこそ、傲慢さに毒されない健全な発信を長く続けられる。

 私の成功体験はとりあえず私だけのもので、皆さんがそれをマネしてもうまくいかないくらいに思っておいてちょうどいい。でも、皆さんが聞いておもしろい話にはなると思うから話すね、くらいのライトな感覚でどうだろう?

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