人間の証明

 まず断っておくおくが、今回の記事は懐かしい名作映画の話ではない。

 ヒトという生き物が宿命的に好きな、心惹かれる「あること」について考えてみたい。いくつか例を挙げるので、そこから導き出される『ヒトとは何か(あるいは宇宙人などの他の知的生命も含む)』に関する答えを考えてみてほしい。

 もちろん、ここで導き出す私の答えも、特段真理とか絶対とかでもなく、ただヒマつぶしに考えてみました~程度のことであると考えてほしい。そうでも言っておかないと、ムキになって反論してくる面倒な人が出てくるから!



 大昔、イエス・キリストという人物がいた。ちなみにキリストというのは「救い主」という役職名なので、名前ではない。だから私たちがイエス・キリストと言う時は「山田太郎」みたく苗字と名前を言っているわけじゃなく「イエスは救い主」だと口にしていることになる。別に、たいがいの日本人はそんなこと思っちゃいないのにね! 慣れというのは怖い。

 イエスは、奇跡の力を使って目の見えない人や歩けない人を治したと伝えられている。極端な場合は死人を蘇らせたこともあった。

 これまで、そういったイエスの行為は「愛に満ちたもの」であり、信者からは賞賛しかされない「神の子としての愛の行為」として誰一人悪く言う者はいない。

 でも、筆者はここに疑問をもつ。実はイエスは「間違ったことをした」のではないか、と。



 筆者は7年ほど、障がい者支援施設で働いていた。

 身近に、様々な障がいをお持ちの方と接してきた。

 給料こそ少ないが、少なくとも働くということはできるような軽度の方から、ひとつだけでない「重複障害」をお持ちの方もいた。そういった方は、お仕事どころか日常生活がやっとで、家族が今日も無事一日を終えた……なんて安堵するレベルの方もいたりする。

 当たり前だが、イエスが生きたのはおよそ二千年も前である。今は彼に治してはもらえない。

 例えば客商売などで、ある特定のひいき客に特別に割り引いたとする。こっそりやったつもりなのだが実は他の客に見られていて、「アイツにやったんだからオレにもやれ」と言ってきたら、従うよりほかないだろう。その客に「えこひいき」を広められたらイメージが悪くなる。

 客商売において、あるいは未就学児や学校での教育もそうなのだが——



●みんなにできないことは軽々しくしない。

 ひとりにしてあげて、他には秘密にしたいという時それはかなりの確率で「よいこと」ではない。



 ここが結構重要なのである。

 イエスは、一か所にしか存在できない、限られた存在である。彼が触れて回る縁のある人間しか助けられず、イエスと同時代に生きたにもかかわらず治してもらえることのなかった障がい者がごまんといたはずだ。

 極端な話、イエスが近くに来ているという噂を聞きつけた、障がいのある子をもつ母親がすべてを放り投げ必死に向かうと、何百人という大行列。

 我慢して炎天下の下並んだが、日が暮れてあと数人しか前にいない状況の中、弟子らしき人物が「今日はここまで! 先生もお疲れなのでまた後日来てください!」

 で、その後日は永遠に来なかった。イエスは一か所にとどまり続けない人らしく、早々に旅立ってしまいその地には二度と来なかった——。



 そもそも、障がいを奇跡でもなんでも「治した」というところがアウトなのである。障がいが何かしらの超常的な力のおかげで治る、なんてことがまずない現代において、障がいは別に不幸ではなく、そういう方は我々に大切な何かを教えてくれ、重要な役目を果たしてくれている、というようなメッセージは多い。映画や小説やマンガなどでも、身近に障がいというものがある人の手によって素晴らしい作品が生まれている。

 障がいはかわいそうとか不運だとか、そういうくくりで考えるのではなくひとつの役割であり個性であり、個性というのが美化して言い過ぎならただの「不便」である、そんな見方が市民権を得つつある今、イエスのように簡単にそれを治せてしまうと、人類は大切な精神的成長の機会を失ってしまうと思う。

 もちろん、障がいという名の不便が治ると言われたら、そりゃ治らないよりは治るほうがいいだろう。筆者は何も治るな、と心の狭いことを言いたいわけではない。でも、イエスがやらかしたことに関して少々の違和感は残る。イエスが人類史上釈迦と並んで最高の精神の持ち主だと言うには、ちょっと配慮が足りないからだ。



●治してしまう、ということはそれが暗にいいか悪いかで言うと「悪い」ものであるという裏メッセージになってしまっている。



 死人を生き返らせる、というのも「死は悲しいこと」であると印象付ける。

 聖書には、イエスが「息子を失った母親をかわいそうに思い、棺桶に触れたら死体が生き返り、皆びっくりした」という話が載っている。

 仮にこれが本当だったとして、イエスはバカなことをしたなぁと思う。もちろん、息子が生き返りうれしがる母親を否定する気はない。それはそれでよかったね、ではあるが……



●マクロな視点では、イエスのやらかしたことは地球に混乱を起こした。



 皆を救えないなら。一部出会えた人へだけのえこひいきならやらないほうがよかった。私は障がい者施設に勤め、そこで障がいとは何かという哲学的な問いを深めていく中で、イエスの軽率さを恨めしく思った。おいイエス! 今現代に蘇ってこの家族を救ってやってくれよ! そう思ったものだ。

 でも、賢者テラになってから少々そこの思いが変わってきた。ああ、イエスのやらかしたことがヒトとしての本性なんだなぁ、って。仕方ないんだなぁって。



 そもそも、聖書に書かれてある人類の原点、アダムとイブ。

 二人は失楽園した。神様の言いつけを破ったのだ。してはいけない、ということをあえてしたのだ。

 非二元の話もそうだ。もともと絶対無(くう)しかなかったところへ、自他という二つ以上の数のものを外に認識できる「二元性世界」を作った。これは、本来あるべきでないもの(幻想)を、あえて作ってしまったということであり、これも本来こうあるべき規律を破ってできたものだ。

 先ほどのイエスの話もそうで、イエスほど頭のいい人物なら、心のどこかでポンポン障がいを治したり死人を生き返らせたりするのはいい悪いで言えば「悪いし、するべきではない」と分かっていたはずだ。でも、彼は実際に目の前で涙する人々・苦しむ人々を見て、どうしようもなく助けてやりたい気持ちになったのだろう。

 筆者だってさっきから冷静なことを言っているが、もし自分に目の前の悲しむ人を救う力があったら、やはりそれを使うだろう。それが結果どんな混乱を世に引き起こすことになろうと、それはその時のことだ! とやってしまうと思う。

「パタリロ!」という名作漫画で、奇跡で人の病気を治すロビーという少年が登場した話があった。あれなども、自分の命を削って与えているということが分かって後も、死ぬことが分かっていて力を使うシーンがある。そういうのに感動するのもまた我々人間である。

 以上の話から、この宇宙に住まう人間の宿命的本性とは——



●本来、規則的原則的にダメだと分かることを、目の前の命のために、その涙をぬぐうために、破ったり目をつむったりしてでも思い切ってやってしまう。



 ヒトって、どうもそれが好きなんだな。

 だから、この世界を法律や規則・刑法で正論ガッチガチにしても、それに収まりきらないドラマがどれほどこの世界には多いことか!

 それを情のために無視する危険性がマックスなのがヒトという生き物よ。

 この本性と我々はうまく付き合っていかないといけない。人生が困難になりすぎない程度に。この世界の法に触れない範囲で。「君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる」というのがヒトなのだ。

 イエスの場合は、もうぶっちぎりでそこを振り切った。十字架にかけられて死んだというほどに。彼は決して間違いを犯した大バカ者なのではなく、それほどまでに情に厚い男だった、ということだ。

 世界一大馬鹿で、世界一情熱家だった。

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