天才と狂気

 園子温という映画監督が、自身の映画の出演女優への性加害を暴露される報道がなされた。世間は驚きに包まれたというよりは『なるほどね。あの監督ならおかしくない』という感想を持った方が多いようだ。



 筆者は賢者テラと名乗るようになってあとにこの監督とその作品のことを知った。

 作品もどれもが私からしたら「一般的にうける映画とはこんなもの」という王道要素からは全然かけ離れていたからだ。一見「くだらない」と見えたりストーリー運びが意味不明な作品でも、そこは監督と「似たにおい」のする人間からしたらニヤリとしてしまうメッセージ性がある。

「自殺サークル」や「リアル鬼ごっこ」などは、普通に見たらただのひどいスプラッターホラーなのだが、これ実はすごいんですよ。悟り系のエッセンスや宇宙のからくりの話なんかさりげなく散りばめられている。監督が自覚的にやっているのか、ただ結果的にそういう話になってしまっただけなのかは知らない。



 筆者は、おそらく監督と似た者同士である。同系列にカテゴライズされるだろう。

 だからといって「天才はどうしても人と違うとがった感性や価値観を持っているので、すごい作品を世に提供してくれるのだから多少常識外れのところは目をつぶれ」とは絶対に言わない。幻想とはいえ、人はこの社会ゲームというルールに則ってエントリーしている身。そこから外れちゃいけないのは当然のこと。

 一般の人は、天才(あるいは成功者)とか有名人とかいう人種にあこがれをもったりする。中には少なからず「自分がそれになろう」と目指す者も出てくる。

 もちろんこの私も、昔はそのようだった。無名で終わるか有名になるかどっちを選ぶかと言われたら迷わず後者を選んだだろう。

 だが今は、よく分かった。



●人には、これ以上進むべきではないある一線がある。

 有名になるにしても、この一線以上を求めたら破綻するという一線が。

 そこで引き返せるか、セーブするかの瀬戸際がある。



 筆者も、ちょっとではあるが他人から「先生」と呼ばれ、まったく知らない人たちから講演に呼ばれて「ブログ見てます」「先生のファンです」みたいなことを言われ、ちやほやされる経験をした。

 怖いのは、それがとんでもなく「いい気分」であることだ。よほどの人物でないと、その対応が続く旅路の果てに「いつのまにか自分の活動の原点軸が狂っている」ということに気付けない。気付けないままに真っ逆さまである。

 一般有名人ですらそういうことがあるのだから、ましてや宗教やスピリチュアルなどという分野でそれは、絶対にムリがある。動画のアクセス数や税金対策、次のメディア展開など検討しながら「禅」なんて言ってたら笑うぞ。

 ここ最近の先端スピリチュアルでは、昔と違って「スピリチュアルと豊かさは両立する」「逆に富や名声は本物の証拠」みたいな考え方が主流だが、なんでも限度というものがあろう。



 怖いのは、いくら本人が「これ以上持ち上げられたらヤバイ」と思っても、周囲との関係が強固に出来上がっている場合「進む以外の選択肢がない状態」になっているということだ。

 園監督にしても、はじめっから性加害する人だったのではなく「権力を得ていく過程で、こういうこともできるんだなと味を占めて、監督に群がる周囲もそれを自身の利益のゆえに幇助すらした」ということでズレていったものと推察する。

 筆者だって、もし園監督と同じ立場に実際に立たされたら、誘惑に負けてしまうかもしれない。人知れず、映画女優になるレベルの美人と性関係が持てるとなったら、どうなるかわからない。

 人間、「私だったら絶対にそうはなりません!」という自信はもつべきではない。



 筆者はいろんな世界を見てきて、宗教(精神)指導者が組織の上に立ち名声と尊敬を集めたらどんなことになるか見てきた。

 最初は、立派なのだ。初心というかその活動を始めた原点というか。

 そこに定期的に立ち返ることの大切さを、いつしか忘れてしまう。園監督なら、本来最も大事なのは「映画を撮ること」であろう。皮肉な話だが、映画とは関係ない「自分の職権乱用」のせいで、一番大事な映画撮影にこれから支障が出ることになるというのはいち視聴者として大変残念だ。

 かくいう私も、人とはだいぶ違った尖った部分が精神世界にあると思う。大勢の人にすごいと思われるような天才肌の人物は、少なからず多数派とは違う「狂気」を抱えているものである。

 今「狂気」と言ったが、それは安直に「気が狂っている」「頭がおかしい」というとらえ方はしてほしくない。ただ、一般人が普通に感じないある部分を強く感じ、一般人が強く感じるはずのものをあまり感じない、という異質さがあるのだ。だからこそそういった人物の言うことや作る作品は面白い。だが、人間性としての評価は別。



 天才、いわゆる世間一般の平均とは大きく逸脱した感性や価値観を持つ者は、心せねばならない。我々が生かされて在るのは、一般ピープル(大多数派)が常識や良識というコンクリートで固めて作った世界というケージ(飼育箱)の中なのだ。

 いくらオレ流はこうなんだというのがあっても、その中で一線を超えないようやっていかないといけない。その試練が来た時に、勝てない人物は少なくない。

 園監督のようなことはおそらく氷山の一角。叩けばいくらでもそういう事例は発覚するだろう。でもそうやって無菌状態をつくろうとしたら、芸能界というもの自体に人があまりいなくなって何も作れなくなるというのも事実。

 対岸の火事の我々は完璧を求めるが、芸能という世界の性質上宿命的に仕方のない部分があることは認めねばならない。そこからどうしても不祥事をなくしたいなら、人類全体の意識ステージが上がるしかないのだが、それはたかだか今後数百年程度ではムリだろう。



「作品には罪がない」という考え方がある。

 よく、役者や監督の不祥事が発覚したらその作品が「お蔵入り」「非公開」という処分を受けることは少なくない。

 そういう時に、何かの作品のファンならば「確かに不祥事は悪いが、だからってこの作品には罪がないのだからお蔵入りはやめてくれ」と言うだろう。

 この問題に関する筆者の立場は、中立である。どっちの言い分も分かるからである。人によっては、もうその監督や役者の出ている番組や映画などは「目にしたり聞いたりするだけで嫌悪感が湧いてくる」という人もあろう。そういう人たちのことも分かるから、お蔵入りも仕方なしと思う。

 一方で、その作品には監督だけでなく大勢の人が関わっているわけである。不祥事とは直接関係ないスタッフも大勢だろうし、その人たちにも生活がある。それをお蔵入りにしたら、その人たちに入るべきお金が入らなくなる。

 だから、この問題は単純に善悪や賛否を決められない。非常にデリケートで複雑な問題なのだ。

 幸か不幸か、筆者の周囲は穏やかすぎるほど穏やかで、筆者の狂気が悪いほうへ出る可能性がほとんどない状況がある。一番の贅沢は売れないでそこそこの生活費が入る穏やかな生活、というものだとしみじみ思う。大勢とかかわると、その人数に比例して人生がタイヘンになる。たとえ精神的指導者レベルの器でもだ。

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