無理に分からなくてもいい幸福論

 本書の過去記事のどこかで、筆者は『スピリチュアルは、人の不幸を前提として存在している』ということを書いた。「幸せになりたい」ということは、裏を返せば「今幸せではない(少なくとも幸せだと胸を張って言いきれない)」ということの表明でもある、と。

 医者は人を治すのが使命だが、本当にこの世界から病気が根絶してしまったら困る、という(医者たちは認めたがらないだろうが)隠されたホンネがある。それは警察もそうだ。

 スピリチュアルも、幸せじゃない人がいるからこそ仕事になる。幸せになりたい人に情報を与え、何かを教えてメシを食う。そういう顧客がいないと成り立たないので、すべての人に幸せになられては実は困るのがスピリチュアルである。

 でも、こういう反論も考えられる。



●不幸がないとスピリチュアルは成り立たない、ってのは違うと思います。

 たとえば、今幸せではあるんだけど、もっと大きな幸せにしたい、ってことがありません?

 今でも十分幸せだしこれはこれで感謝で満足なんだけど、もっと幸せになる、って感じ。これなら、別に不幸がないとスピリチュアルは必要とされない、ってことはないと思いますが?



 なるほど。

 今もまぁ幸せって言やあ幸せなんだけど、もっと幸せになるために……か。

 もちろん、そう考えてもらってもいい。それであなたが幸せなら、私はそれ以上何も言わない。何だったら「私が間違ってますね。スイマセン」と言ってもいい。

 でも、私には「幸せとは何か」について独特の定義がある。

 それが好きじゃない人もいるだろうから、まったく無視してもらって構わない。興味のない方は、ここまででサヨウナラ。

 では、いくぞ。



●幸せに、大きいも小さいもない。

 幸せは幸せであり、それ以上でもそれ以下でもない。幸せに大きい小さいがあると思っているうちは、あなたの精神の旅はまだまだである。



 この世界は、ある特徴がある。

 知的に、思考という作業台で「比較」という行為ができてしまう、という点。そしてそれは、正味の「宇宙の真実・本質」という点からは性格上かけ離れてしまう宿命をもつ。

 大きな幸せ、小さな幸せ。そんなものはないが、「あるように」考えることができるのが人の思考である。

 幸せとは、あるひとつの状態である。それに差があると認識できてしまうということは、あなたは幸せが分かっていない。



 もちろん、分かっているから優れている、分かっていないから劣っているということはない。むしろ、損をするのは分かっている方かもしれない。

 ゲームを、「これどうせゲーム」と分かりきった醒めた視点でやるのと、世界観にのめり込んで夢中でやるのとどっちがいいかというと、当然後者である。

 だからこの世界では、うまくいくなら「大きな幸せ追求ゲーム」をし続けるほうがやりがいがある。「もっともっと」のほうが刺激的だ。そもそも、それをするための舞台でもある。

 でも、比較してより大きなものを、というステージで生き続けるためには「苦」を背負う必要が生じる。その苦を引き受けてでもなおそうしたい、と言い切れるなら一生私が言うことを分からなくてもいい。

 


●幸せに大きいも小さいもない——

 このことを分からない方がある意味「幸せ」なのかもしれない。

(禅問答みたいでスマヌ)

 それだけこの世界を満喫できている、ということだから。



 でもたまさか、大変な境遇や体験がそうさせたのか、それとも「血」であり「使命(人生脚本上の)」なのか、突き抜けた考えや境地に至る者がいる。それを世間では「悟り」という言葉を当てることがあるようだが、それも人によってスピリチュアルによって定義の違いがあり、混乱をきたすところである。

 


 例えば、あなたのお子さんがどこかへ就職できた、とする。

 この不景気、ちゃんと正社員で入れただけでもよかった。そう思える。

 だが、仮にお子さんがものすごい一流企業に就職がかなったとしたら?

 皆さんの感覚では、前者は「幸せは幸せだが、比較で言うと小さな幸せ」なのだろう。ならば後者は、より大きい幸せ?

 第二志望の大学に受かるより、第一志望に受かるほうがより幸せ?

 趣味で小説を書くより、出版社の目に留まって売れて、作家になるほうが物書きとして幸せ?



 筆者の定義では、それらは「幸せ」ではない。

 それはアチーブメント(達成)であり、「その位置に立てた」ことを客観的に観察して生じる快感、という副産物である。ちょうどトランプの神経衰弱で同じカードを引き当てた時に感じる快感の別バージョンであり、それを幸せだと思っている限り「幸せ格差」は消滅しない。いつまでも、「うまくいった人」「うまくいかない人」の差が存在し続けるからだ。

 嫌な言い方をしたら、『得をした・何かがうまくいった』ということで、それを幸せと単純に考える人も多い。 



 誰にでも、どんな状況の人でも今すぐ、置かれた状況に関係なく「幸せ」になるための離れ技があるとしたら、幸せに関して大小や価値の差があるという思想を捨てることである。

 どう考えても、皆さんが考える「幸せ」に地上のすべての人が例外なく「なる」というのは、机上の空論。理想として抱くのは構わないが、現実には無理だ。

 この世界では、常に比較が必要だからだ。それがないと、ゲームの意味がない。

 皆が完全一律になって比較する(差のある)対象を観察できない世界など、人間は我慢ならないだろう。今皆が苦痛にあえいでいるから「完全平等」「全員が同じ」になることがすごいいいことのように思えているが、いざなってみるときっと逆行する動きがでるはずだ。

 折角達成したそれを放棄しようとする人物が一定数現れ、時代はまた混沌を求めるだろう。



 だから、幸せに比較論を持ち込めなくなった者は、洞察は優れていても孤独なのだ。それはそれで、寂しいのだ。

 織田裕二が主演した『IQ246〜華麗なる事件簿〜』というドラマでも、織田演じる天才が、世界の未来と自分の将来を悲観する言葉を言ったら、根が単純な刑事を演じる土屋太鳳が、「あなたは間違ってます」と、天才に言い放つ。そして、希望とか「命は何より大事」という理屈を熱く語る。

 それを聞いて、織田はうらやましそうな顔をする。

「その通りだ。君は、まったく正しいな」

(ちなみに、織田はフランスの数学者の言葉を引用して、「起きることはすべて決まっている」に近い概念を口にしていた)

 この図式は、きっとこれからもずっと続く。分からなくて済むなら、それでよい。いや、生きるにはそのほうがいい。

 何かの加減で分かってしまった人がいたら、それは仕方がない。



 だから、今回書いたことは分からなくていい。大勢には「はぁ?何これ」でもいい。ただ、たまたま筆者と似た人生シナリオの人がいたら、うんうんわかるわと思ってもらえればそれでよい。

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