高い精神性は世界を救わない

 保険の宣伝が、最近やたら目につく。

 生命保険。学資保険。ガン保険。自動車保険。

 今日見たCMのキャッチフレーズでは、「え、まさか! その時のために——」



 スピリチュアルで嫌われるのは、「恐れを煽る」ことである。意識が現実を作るというので、心に恐れを抱くからそれがそのまま現実化すると考える。その理屈だと、恐れさえなければその悪いことは起きない、ということになる。

 だから、スピリチュアル的ワークではやたら心を喜びや快な状態にすることに躍起になり、恐れや不安を追い出そうとする。恐れるから、その通りになる。不安を抱くから、それが現実になる——

 心地よさだけを選ぼう、なんていうのもその思想の表れである。



 その点では、保険屋さんなんて筋金入りのスピリチュアル実践者はキライかもしれない。だって、「他者の恐れを食いものにして利益を得ている」からである。

 仮にだが、スピリチュアルに目覚めた人がもともと保険屋をやっていたとして、恥じて辞めたりすることがあるのだろうか? 人様の恐れにつけ込んだ商売など、もうできない!なんて。

 もしもガンになったら、莫大な入院費や治療費は? 家が火事で燃えたら? 一家の大黒柱が、何かのことで死んでしまったら? その不安を動機として、備えとして保険をかける。

 スピリチュアル的には、そんなことになるかもなどという恐れの意識を露ほども持たなければいいだけだ。心に恐れがなければ、その恐れのない清々しい意識が現実を作るのだそうだから!

 言霊でもアファーメーションでも利用して「良いことが起きる。ツイてる」と思い込めばいい、というのが『思考は現実化する系スピリチュアル』のスタンスだ。もし本当にそれが完璧にできたら、ひどいことは起きない……はずなのだが。

 どうひいき目にみても、それは真理だとは言えない。誰も完璧にできている者はいない。できているとしたら、それは営業用にいいところだけを見せているだけ。

 まぁ、たとえその理屈が真実だったとしても、現実問題誰にも実践不可ということで「まったく役に立たない理屈」である。

 物事が起きる原理というのは、そんな単純なシステムではない。

 もっと無数の力が複雑に干渉し合う結果なので、個人の思いの世界が完璧でも悪いことは起きる。キリストや釈迦の最後を見よ。あれは、引き寄せか? 意識にあるものが現実化したということでいいのか? この世界にはすべて望んでいることしか起きない、でいい?



 奇跡のコースという教えでは、「守るから攻撃される」というものがある。

 家に鍵をかけるから、需要と供給の関係で泥棒が創造される。守ろうとするから、その守りを意味あることとするために「攻撃する役」が必要とされる。

 では、この世界から問題を一切なくすには?

 不幸や苦痛を一切無くす方法は?



●守るものを何も持たないことである。



 守るもの、大切なものが何もない状態なら、何が起きてもその人物には関係ない。

 外側の何者も、そういう人物を動かすことも、傷付けることもできない。

 だからイエス・キリストは、永遠の命に至るにはどうすればいいか? というメッセージにおいて聖書で——



●すべてを捨てて、私に従え。富はすべて貧しい者に施し、親兄弟も大切な人も捨てて、十字架を負うて私に従え。



 そんなことを言ったのである。

 守るものがない者こそ、究極の高みに行くことができる。

 その高みから見る風景は、確かにものすごい境地だろう。でも残念だが、その者が歩む道は孤独である。

 誰とも「共有」できないから。同じレベルで理解し、共感できる仲間がいないから。ただ孤独なだけならいいが、場合によっては一般平均的な大多数から理解されずさげすまれ、ひどい時には憎まれる。



 守るものを持たないということは、究極の「苦痛消滅システム」であろう。

 この世は諸行無常の世界ゆえ、ずっと生涯何かを守りぬこうとしても、ある程度はうまくいっても常に状況は変化し同じであることが許されないゆえ、思い通りに行かず「苦」が生じる。

 何かを守ることイコール「苦痛から逃れなられない」ことを意味する。

 家に鍵をかけ続ける限り、泥棒はいなくならない。警察を無くさない限り、犯罪者はいなくならない。(捕まえようとするから必要で生じる)歯医者をなくさない限り、虫歯患者はいなくならない。



●ゆえにスピリチュアルをなくさない限り、全員が幸福にはならない。不幸な人がいることを前提としてしか、成り立たないからである。

 皆が幸福になってしまったら、スピリチュアルは要らなくなるから。それでは、金儲けするほうも困るのである。



 インドの聖者などは、本当にやってしまう。

 腰みのいっちょうで、お金要りません地位要りません家要りません異性(恋愛・性関係・子ども)要りません。なーんにも要りません。

 ただ、神人合一(神と一体という、この上なく素晴らしい意識状態)の境地だけでいいです! と。

 確かに、すげーよ?

 でも、本当に「守るものを一切持たない」ということを目指してまで、この世界で生きる意味は何?

 皆が皆、そんなことについていけないよ。できる人はいいが、そんなもの数えるほどの人数でしかない。

 ほとんどの人は、何かを守る人生を選択する。子ども。仕事。打ち込んでいる学問、研究、スポーツ。奥さん(夫)、友達。モノであれば、財産、車、家。その他、仕事上か趣味の上で大事にしている物品。

 親なら、子どもが書いてくれたお母さん(お父さん)の絵とか。「いつもありがとう」という手紙とか。「肩たたき券」とか 「おつかい券」とかを孫が作ってくれ、勿体なさすぎて使えず、大事にとってあるという老人もいる。



●ほとんどの者は、皆そうやって何かを守る道をいく。苦痛をあえて引き受ける道をいく。その苦痛を補って余りある、おつりがくるほどの「喜び」がきっとそこにあることを信じて。



 これからも、ほとんどの人は家に鍵をかけつづけるだろう。ほとんどの人は、自分だけ自動車保険に入らないという人はいないだろう。

 引き寄せの先生や覚者でも、「自賠責すら、恐れがないので要らないと思ってます」という猛者はきっといないだろう。いたら名乗りを上げてほしい。名前を覚えておくから!(笑)

 守るものを何ももたない、そうすることで一切の恐れが生じる隙をつくらない——そんな生き方は完璧で高尚かもしれないが、誰も救わない。

 極めたその人がたった一人、そのご立派な境地に行くだけ。



 結局、苦痛を引き受け何かを守る人生を選んだ人の役に立てるのは、同じ目線の教えだけ。そもそも防御しないとか、そんな地に足のついてない教えは、鼻糞ほどの役にも立たない。

 今の世界を、そんな理屈がどう変えるというのだ? 理屈としてはものすごいが、大多数の一般人の心を動かせないであろう。特に、心が乾きその渇きを癒す具体的な「何か」が渇望される現代においては。

 筆者は、死ぬまでにいつかは苦痛を生じる時もあろうという覚悟で、これからも家族を守り続ける。(決して苦痛を期待しているわけじゃないよ)

 もちろん、そんなものないことを願ってはいるが、仮に何かあったらその時はその時だ、という思いで、今日も自分にできることを粛々とこなしていくのだ。



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 本記事は、別著『クリスチャンがひっくりかえる聖書物語 ~イエスが本当に言いたかったこと~』にも同じものが収録されています。

 キリストの話にからめてだけでなく、悟り系のお話としても大事だとの筆者の判断で、こちらにも掲載しました。

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