転んでもタダでは起きない
今回の記事は、ディズニーランドの話題ネタで始まる。
今からするのは米フロリダにあるディズニーワールドでのお話で、東京ディズニーランドのことではない。でも非常に考えさせられるニュースなので、取り上げる。
アメリカのその遊園地では、手厚い障がい者対策が取られていた。
例えば、車いすの障がい者が一名いたとして、その介助者も含め待ち時間なしでアトラクションに乗れる優遇措置が取られていた。
ちなみに介助者は5名まで認められており、一回で最大6名がその優遇措置を受けられる。一応、相手の良心に任せる形で、人数は抑えてくださいという告示はあるのだが……
この善意の対応を、悪用する者達が現れた。
体の不自由な人を1時間いくらの金で雇って、障がい者の疑似家族を演じるのだ。それで、待ち時間なしで入れるメリットを利用しようということだ。しかも、そういう障がい者を雇える闇のシステムまで存在するようなのだ。
●デイズニーストレスなく乗るためにそこまでやるか~!
今回その悪用がバレてしまったのは、マンハッタンに住む富裕層の母親ら。
おバカなそのズルい人たちは、SNSで「早く乗れたよ!」みたいな自慢さえ、画像付きで投稿していたようなのだ。
筆者が関心があるのは、利用する側よりも「承諾する」体の不自由な人の側の気持ちである。一体なぜ、どんな気持ちでその申し出を受けているのか。お金を受け取ったのか——
筆者は、新婚旅行先に選んだのが東京ディズニーランドだった。
ヘタに海外よりも、そちらのほうが行きたいナンバーワンでもあったので。
私は足が悪かったが、別にキャスト(従業員)に何か言うことは全然考えなかった。でもある時、私の歩き方が気になったのだと思うが、あるキャストさんが声をかけてくれた。
「こちらへどうぞ」
なんだなんだ、と思っていたら案内された先に乗り物の座席があった。要するに列をすっ飛ばして直で通されたのだ。
「ああ、私は体が不自由な人、ってことだったんだな」と納得した。
ちなみに東京ディズニーランドでは、問題の米フロリダのようにきっちり優遇措置を謳っているわけではない。体が不自由、と一口に言っても色々なので、あくまでもキャスト独自の采配による「個別対応」となっている。でも確かに、傾向としてキャストに「助けが必要」と認知されれば、優遇される傾向はあるのかもしれない。
この手のニュースでは、だいたい「こんなやつら許せん」と、障がい者をずるく利用した者達のヘイト値が上がる。けしからん、信じられない! 許せない! 凶悪事件を始め、世の中のルールを無視した者のニュースはだいたいその言い分で攻撃される。で、それでじゃあ次から何か改善されるのか、というとそれはほぼない。
ほとぼりがさめたら、また同じようにすべてが運行する。で、また違反者が出たら攻撃される。これは、マクロ的には人間の歴史もそうである。
●我慢できなくなった者を、まだ我慢できている者が攻撃する。
我慢できなくなった者はただ表舞台を去り、我慢できた者も決して疑問を解消できず、どうにもならない思いを持て余しながら、時にそれを別の事で忘れようとしながら死ぬまで生きる。
その繰り返し。
今の世の中がハマっているのは、「こっちは我慢してやってるんだ」「なのにズルい抜け駆けしやがって」という気持ちが生む、全方位型迎撃システムである。
もうみんなこの世界の枠組み自体を変えることはあきらめているので、だからその枠の中で皆必死に生き、そのゆるされた範囲内で「幸福」を達成しようとする。
でも、なかなか思うようにいかない。不満も出る。出るけど、それでもその社会で「模範的市民」であれるように、犯罪などしない。違反などしない。それがシャバの一般人魂。
そうやってあなたが頑張っているのに、それをズルい手で簡単に回避したり禁じ手を使う強硬手段に出た者が現れたら、「こっちは同じ条件でもちゃんとやってんだぞ! なんでそれを……(ズルイヨソレハ)」という思いが噴出する。
その我慢ならなさが、バッシングに繋がる。
バッシングというものは、見た目には「正論」という仮面をかぶっているため、一見正当なものに思える。言ってる側も、自分が正しい側であるという優越感を持っている。でもそれは突き詰めれば「こっちはガマンしてるんだ」という鬱屈が変形しただけのもの。
不正で得たお金を、足がつかないように札のナンバーを違うものにする「洗浄」というものがある。それと同じで、究極には歪んだ嫉妬だったり、自分がしている苦労を相手がしないことへの不満だったりするものを、キレイに飾ることで「正義の意見」へと浄化変身する。
もちろん、犯罪者や今回の障がい者の不正利用者を擁護する意図はない。
ただ、同じこういうことが起こってしまったのなら「転んでもタダでは起きない」というのが、知的生命体である人間の叡智なんじゃないですか? ということ。
ディズニーランドの混雑が常態化し、大勢は「良心的な市民」なため問題は起こさないが、でも内心「どうにかなんないの?」という不満だけはあるのである。
みんな大概ガマンできているのに、時折我慢の限界にきてルール違反に踏み切る者も出る。でも、それはそういう者が出るほどの状況であり、考えないといけないところを、その違反者への非難にエネルギーがもっていかれ、結局そこで話が終わるという悪循環になる。
かつての連合赤軍が起こした「浅間山荘事件」もそうだ。
えげつない話だが、その内部では徹底した思想管理、言論統制が敷かれ、ちっとでも逆らう(つまり普通の人間らしい考えになる)と、粛清の対象となったらしい。
粛清というのは、平たく言うとリンチである。でも行き過ぎることが多く、ほとんどは死刑を意味した。もちろん、実行させるのはトップだが、手を下すのは下っ端である。
痛めつけるのは、一時は仲良しだった友達であった。おかしい、何かが狂ってるとはちょっと思う。でも、規律をやぶったのだから——
そうして、手を血で染めていく。そしてその人物も、後に耐え切れなくなり、彼(彼女)よりもさらに耐えた人物の手によって粛清される。
その繰り返しで、組織は一向に変わっていかない。
我慢しきれなくなった者、まだ我慢できている者。
後者が前者を攻撃して終始している社会は、いずれ破たんする。
最後まで後者で在り続けなさい(皆頑張っているんだから)というメッセージには限界がある。
今、世界はあと2キロも行けば滝壺になってしまう川のようなものだ。私たち人間は、今そこで船に乗っている。
今はまだ周囲の景色もまだきれいで、見とれることができる。落ちる前のスプラッシュマウンテンの風景みたいに。
でも、そのまま2キロ進めば、滝に落ちる。今ならまだ、それを察していくらでも横の岸に逃げるチャンスはある。
でも、ボ~~~~ッとしていたら、何もしないでいたら、そのうち船は……
今の世の中、一向に世の中の土台システムに斬り込む話までいかない。
明らかに機能しないって分かっているのに!
その中で、たまたま立場的に限界が来た人がガマンできなくなって飛び出したら、そこに我慢できている人たちが銃を構えていて、一斉射撃される。
犠牲になるのは弱者が多く、本当に問われるべき点がいつも逃げおおせる。何かを改正する話が出ても、それはどっかで既得利益が痛まない範囲で巧みに抑えられる。
私は、「我慢できなくなった者を我慢できている(うまくやれている)者が排除する」というサイクルの繰り返しは、実に悲しいと思う。確かに「だからって盗んじゃダメだろ」「だからって殺しちゃだめだろ」というのは、まったく反論できない正論中の正論である。でもそれを言った数だけ、トカゲのしっぽ切りみたく——
●大して切っても意味のないものが切られ
本当に切らないといけない部分はその正体を隠し続ける。
転んでも、タダでは起きない——
まずは、大きく変わらなくてもいい。その悲劇から、ちょっとでも何かが変わり、誰かが学び次に生かせるなら、その積み重ねに懸けるしかない。
その懸ける何かを、今日も必死に積み上げていく。
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