粉ふるい

 ずいぶん昔、誰か忘れたがある男性芸人が小学生時代のエピソードとして、バラエティ番組で語っていた話だったと記憶している。

 小学校1年生の時、トイレに間に合わずおもらしをしてしまった。体調不良という事情も手伝い、責められないものの少々バツの悪い思いをして保健室へ。

 やっぱり熱も少しある、ということでその日は保健室で安静にして、あとで母親が迎えに来ることになったのだが、非常に悩ましい事態が起きた。

 小学校の保健室には、そういう事態のために「替えのパンツ」があるものである。しかし、運の悪いことにたまたまこのタイミングで——



●男の子用の下着が、ちょうど切れていた!



 さぁ困った。残っているのは二つ。

 女の子用のパンツふたつ。ひとつはフルーツがちりばめられた絵柄。もうひとつは、ディズニーキャラのミニーちゃんがプリントされたピンクのパンツ。

 さぁ、イヤでもどっちかをはかないと、ノーパンでは上からはくズボンの生地が擦れてゴワゴワする。これは究極の選択だった。

 どっちにしても、この後母親から笑われるのは必至。

「あんた、これどうしたの?」

 身を裂かれる思いでフルーツ柄を選んだ彼だったが、彼のせいじゃないところで案の定母親には笑われてしまった。必死に事情を説明するも、「分かった分かった。笑ってゴメンネ、それでもああおかしい」とやはり笑っていた。

 その後も時々、この時のことを思い出し笑いする母に「オカンええ加減やめてや!」と苦言を呈していたという、思い出のある小学生時代だったようだ。



 前回のアメリカ大統領選挙。トランプ対バイデン。

 ある人が評してこのように言った。

「どっちがちょっとでもマシか、という戦いになっている気がする」。

 バイデン、いつ倒れてもおかしくない高齢者。トランプ、指導者としてちょっと眉をひそめたくなる問題行動が多い。そもそもアメリカの顔(ひいては世界の顔)を決めるのに、こんなお寂しい選考があるか?

 この二人から選ばないといけないなんて、いったいどうしてそんなことになったの? 政治の仕組みがよく分かっていない我々は、首をひねるばかりである。

 まさに、男の子が「女物のパンツのどちらかをはかないといけない」状況に似ていると思った。

 保健室の世界なら、まだかわいらしい笑い話で済むが、人類全体の幸福にも関わってくる問題である。こんだけ人間がいて、なぜアメリカという強大な国家の長を、あの二人の中から選ばないといけなくなったのか。そこを考えてみることが、庶民にも必要である。



『粉ふるい』なる道具がある。

 料理や製菓で使いますね? 小麦粉をサラサラにする時に使う。

 使用に適さない固まりの部分(ダマ)を、取り除くことができる。

 粉ふるいは、正確無比に「適した」粉だけを残す。それは、粉ふるいの「目」がどこもかしこも均一で、妥協なくおなじ穴の面積だからだ。だから、その網の目をくぐれる大きさのものだけが落ち、大きいものは落ちることができず残される。

 バイデンとトランプに、この粉ふるいの話を当てはめてみよう。

 粉ふるいが適した粉を残すように、このふたりだって政界の人物全員をふるいにかけた結果、最後まで「適した者」として残ったはずである。

 それがこの有様であるということは、もう「粉ふるい」がおかしいのでは、と考えざるを得ない。

 以下は、一市民の勝手な想像でしかないが——



●「お金がある・人脈とコネがある」 → 健全・一定であるはずの粉ふるいの網目の一部が、密かにそういった者達が通れるように 「広げられた」



●指導者は頭がよいのがなる → 当然、一定の学歴がいる → 全部とは言わないが、それなりの大学を出るためには、お金がいる → 金持ち・血筋の良い者がほとんどになる



 粉ふるいの網目が、色々な影の意図で変形させられているのだ。

 いくら、その外からは分からない「大統領候補が決まるまでの人生コースやからくり」があっても、実際候補が出そろえば、誰にだっておかしなことは分かる。いくら政治を分かっていない庶民でも、出がらしのお茶のようなリーダー候補者を見て「え、ここから選ぶん……?」と思ってしまうのは仕方がない。

 この世の中のシステムで、まったく穢れなく、シミひとつなく生き切れる人はまれである。ある意味では、「いない」と言っても過言ではない。

 そのわりに、政治の世界で求められるのは「クリーンさ」であり、いかに今まで間違いを犯していないか、が問われるので滑稽である。

 また、大統領戦ともなると、その戦いはフェアで美しいというより相手をけなしあう泥仕合である。双方の陣営は相手方にスキャンダルはないか目を皿のようにして調査し、攻撃材料を得ようと躍起になる。

 もう、どっちの不祥事(不名誉)がまだゆせるか、という戦いになっており、これでは有権者も興ざめである。まさに、今日紹介したようなお話の、「女物のパンツしかなく、嫌々でもどれをはくか」を選んでいる感覚に陥る。



 粉ふるいを正すのは、まさに政治の世界に籍を置く者の使命である。

 彼らがまず動くことが望ましいのは、当然である。

 日々の労働に明け暮れ、生計を立てるだけで精一杯の庶民は一見無力だが、できることというのはある。たとえば、金持ちの子(親が有力者の子)がいて、近所の子ども社会の中で好き放題するとする。すると、他の子どもは「面白くない」というような反応をして、だんだん彼を相手にしなくなる。

 で、さすがにその金持ちの子も「いくらお金や力を持っていたって、みんなと楽しくできないのならそっちのほうが困るわ」となる。お金があろうが力があろうが、みんなと笑顔で生きられないなら「意味がない」ということを学び、謙虚になれるのである。

 で、お金があるの親がどうの言わなくなったその子は、「お願いだから、遊んで」 と近所の子に願うことになる。つまりは、私たち一般人が、その「近所の子」になればいいのである。



 もちろん、政治経済勉強して、色々考える材料があるに越したことはない。

 でもせめて、「今の国の状況、政治、人の使われ方に満足いっていません!」という意思表示はしていこう。もちろん、国や政治を責める意味合いではなく、冷静に観察しても「明らかに良くない」という見解になることを突きつけるのである。

 この世界を牛耳る側だって、一応人間である。何をできる力があったとしても、みんな(地球人)が喜ばないなら、そんな一人の王国の王など楽しいはずがない。

 だから、皆で「これって面白くない。別の遊びがいい」と言わねばならないのだ。大それた活動はできなくても、皆でその風潮を「醸成する」ことはできる。それを、表向きのリーダーは無視できないはずだ。

 無視できてしまったらそれは末期的症状で、そのリーダーは終わている。まさにウクライナ侵攻を実行したプーチンがそれだろう。



 一番やめてほしいのは、先の子ども同士のたとえで言うと——

 子どもが、横暴な金持ちの子にみんなで「ノー」を突きつけられればいいのだが、逆に自分の子ども社会での位置づけを計算高く考え、「気に食わないが、言うことを聞いて味方につけておこう」とか考えだしたら、もう試合終了である。実際、そういう選択の積み重ねの結果が、この世界である程度出ていると思うのである。

 今日明日、この世界がおかしいと思ったからといって特に何ができるわけでもないが、とにかく問題意識だけは持っておこう。

 で、いつ何時でも世の動きに応じて立ち上がれる時は立ち上がれるようにしておく。「いざ鎌倉」の精神で、私たちは日々の責務を社会に、家庭に対してまっとうしていく。

 それは逃げているのでも日常に埋没しているのでもない。

 立派に、戦っているのだ。 

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