The answer is 分からない

 ボブ・ディランという伝説的ロックシンガーがいる。

 彼のノーベル賞受賞が決まった時、世間はずいぶん騒いだ。というのも、受賞決定後本人がすぐにそのことに関してコメントせず、一定時間沈黙したからだ。本人が受ける気があるのかないのかがしばらくは分からなかった。

 分からない、という状況こそが世間にはネコにマタタビである。そこで皆、悪気なく色々想像し始める。

「反戦のシンボルだった彼が、爆弾製造会社の創業者が作った賞を喜ぶはずがない。ノーベルを蹴るディラン、カッコいい!」

 ……などと、彼の反戦魂を褒めたたえる意見が。でもそのすぐあと沈黙を破って「本人は受賞を受け入れる意向」と報じられた。

「受賞のニュースを聞いて声を失った」 「もちろん受け取る。光栄なこと」

 それを受けて、「失望した」という世間の反応が出てきたわけである。



●大衆は、自分の見たいように有名人を見る。

 自分のイメージや定義を被せて、本人とは関係ないところで価値を論じる。



 まさに、「自分勝手に」彼をあしらっている。

 次に、こういう意見も出た。



『ディランなら、こんな賞は受け取らない!と自信を持っていた方、残念でした。そんなあなたの裏さえかく。あらゆる方向に期待を裏切るのが彼なのさ!

 むしろそんなディラン最高!』



 今挙げたふたつの考え方は、ディラン氏に好意的なものと否定的なもの、という一見反対の意見に見えるが、実は根っこは同じだというのは分かるだろうか。

 好きであれキライであれ、どっちも自分勝手に「ディラン」を作り上げているだけだという点で価値が同じなのだ。この場合、大変冷めてはいるが、受賞するんだったら「あっそう」が一番無難な感想。

 別に有名人でなくとも、一般庶民もミクロな規模でお互いにこれをしている。一般人は、関わる人数が知れているのでまだいい。

 有名人ともなると、まったく自分の思い通りにならない、予想もつかない『力学』に呑まれることいなる。(呑んでいる、という人は存在しない。いても、それは単なる過大評価であり、本人が「呑まれていない」と本気で言うなら自惚れである)

 ただこの世界の特性上、だからといって一般大衆を責めてもしょうがない部分がある。いつの時代も、きっとこの先数百年くらいも同じだと思うから。



●この問題はステージの上がったガンの状態みたいなもので、架空の人物・大門未知子くらいでないときれいに切れない。(つまり現実には手が付けられない)

 でも、緩和治療や、せめて生きている間のQOLを上げるくらいはできる。だから「人って勝手なイメージを他者におっかぶせるんだな」とわきまえておくだけでも違う。分かっていてなおやってしまうほうが、分かっていなくてどんどんやるよりマシだということだ。



 さて、ここからは筆者が「確信犯」で、ボブに勝手な評価を施してみよう。

 なんで、あとになって言う? 受賞してすぐ、すぐは無理でも猶予をもって三日以内程度でなにか言わなかった?

 ノーベル賞を受けるほどの有名人物が、誰も干渉できない独居老人のような完全プライベート空間にそう長く身を置けるはずがない。特に受賞直後は。

 この世界で、ハイレベルの公人が行方を完全にくらまし、何かを聞けない状態など滅多とあるものではない。絶対、周囲には誰かいたはずで、何かの反応をうかがえたはずである。

 沈黙を破るまでの時間は何だったのかは、本人の口から語られない限り永遠に謎。



 彼は、「なぜ今まで沈黙していたのか」と聞かれ、このように答えたらしい。

「オレは今ここにいるじゃないか」

 見方によっては粋な答えだが、でもやっぱり便利な逃げに聞こえる。

 一見深い言葉をぶつけておいて、煙幕を張る。全然答えになっていない。

 それどころか、「今ここにいるんだら、いいだろ? それ以上を聞くのはヤボってもんよ」と先手を打って牽制している。こういう言い方を、深い人と評価されないといけない「覚者」という人種はしないといけないらしいので、皆さんは気を付けるように。

 今頃になって受賞の意向を発表したディラン氏に、筆者は志村けんがコントで演じる「神様」を連想した。



 「あなた、神さまですか?」

 「……なんだって?」

 「あなた、神さまですか??」

 「……なんだって」

 「あ・な・た・カミサマ、ですか!?」

 「……とんでもねぇ。あたしゃ神様だよ」



 やっと聞こえたらしい。

 何にせよ、自然体ではなく『意図的・作為的』なものをボブの沈黙から感じ取った筆者のなのであった。

 最後、ディランの往年の名曲「風に吹かれて」調に。

 人はいったい、何度有名人に勝手なイメージを被せて人生を左右したら、すべてを見たいように見ているだけ、と気付くのだろう?

 人はいったい、いくつの宗教やスピリチュアルを渡り歩いたら、結局それら自体が何かをしてくれるわけではない、と気付くのだろう?

 人はいったい、どれだけ自分の基準と違うものを非難したら、自分だって大したことないと気付くんだろう?



 友よ、その答えは風に吹かれて揺れていて誰にもつかめない。つまり、分からないのだよ。 ボブディランがなぜノーベル賞をどうするのかの意志をすぐ言えなかったのか。その答えもまた、本当のところは風に吹かれていて、分からない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る