ゲームをしてる場合ではないそうだ。

 とあるスピリチュアル情報系のブログを読んでいたら、目にとまった記事があった。タイトルが、『ゲームなどしている場合ではない』。

 まぁ、ゲームとは単純にTVゲームのことだろう。最近ではPCやスマホでもゲームをすることがあるので、ひとくくりに「ゲーム」と言っている。

 実は筆者、この直前ゲーム散々やったあとだったので、「私はダメなんだろうか?」と思いながら読んだ。(笑)

 せっかく「なぜゲームをしている場合ではないのか」その理由を読もうと意気込んだのに、ブログ主本人はタイトルを書いただけで 「ゲームをしている場合ではないのはなぜか」について自分の言葉では何も書かれていない。

 ただ、ポツンと「これ読め!」って感じで、リンク先のアドレスが貼り付けてあるだけ。きっとその他人の記事に、ゲームなどしている場合ではない理由でも書いてあるのだろう。

 もうね、その姿勢だけでもそいつの底が知れて、結局くだらない話なんだろうなと思った。



 で、リンクでとんだ先は筆者などよりもはるかに人気でアクセス数もケタ違いのブログだった!(笑)

 どうも『イルミナティ(世界的秘密結社)』のことを話題の中心に据えているようだ。まぁ、陰謀論に近い感じ。

 皆さん、これこれこういう事件は、実は彼らが裏で糸を引いているんですよ! これを知らないと騙され続けますよ、大変なことになりますよ!

 ……やっぱ皆さん、こういうの好きなんだねぇ。

 熊本地震や、先日の阿蘇の噴火なども結び付けて論じられていた。

 その「みんな気付かないままで、このままでは世界はどうなる?」という雰囲気が、「今ゲームなどやっている場合じゃないぞ」と言わしめるのだろう。



 イルミナティのことを真剣に考えている人種にしたら、その心境を推察したら、確かに時間がないのだろう。ノアの箱舟のノアの心境に近いのかもしれない。40日後に大雨が降って洪水が起きるから箱舟に乗れと親切からマジで言ってるのに、皆「そんなわけない」とのほほんと遊んでいるその時の心境。

 きっと、かなりもどかしいだろう。でも、これはスピリチュアリティとしては「低い」ものの見方であると言っておこう。



●こういうのを、単純一元化思考、という。



 言い換えたら、「私がこうなのであなたもこうなるべき」という考え方。

 世界はごく単純な真実で貫かれていて、それを私は知っていて、あなたは知らない。だから、いい加減これを分かれよ、せっかく言ってあげてるのに! そのいらだちが「おまいらゲームなんかして遊んでいる場合じゃないぜよ!」となる。



 ご親切は非常に痛み入ります。

 情弱な私たちを思っての忠告、わざわざありがとうございます。

 でも、お気持ちだけありがたく受け取っておきます。だから、ゲームはこれからも楽しませていただきます。

 筆者が思うに、こういう陰謀論系(イルミナティとかフリーメイソンとか)のお話が好きな人って、皆がそうだとは言わないが 「自分は他が気付いていないことを知っている。皆重要さを分かっていないけど私は大事なことを知っている」という気分に酔っているだけの人も多い。

 そういう情報は人気でみな飛びつくんだけど、そういう人たちがじゃあ劇的に行いが変わっているかというと、その後してることは普通。別に財産を貧しい人に投げうつとか、海外青年協力隊に参加したりするわけでもない。

「ゲームをやってる場合じゃない」って、じゃああなた四六時中何をするわけ?

 おそらく、この言葉を吐いたブログ主だって、結局自分のメシの種のお仕事をしてるわけで。で、人間だから仕事ばっかじゃしんどいから、リフレッシュに個人的な趣味にも時間を割くわけで。いったい、どの口が他人に「ゲームをしてる場合じゃないぞ」と言わせるのか。

 結局、イルミナティを何とかする具体的な運動なんて、誰か何かしてるのか? ってか、庶民にできることってあるの? ただ、ネットで騒ぐ程度でしょ。

 もちろん、「ゲームなどしてる場合じゃない」 というのは、文字通りの意味ではないだろう。世界が心配な気持ちのあまり、そのような表現になったのであって、決してゲーマーを悪く言いたくて言ったものではないのだろう。それくらいは、事情を汲んではやれる。

 でも、世の中にはそこまで考えてあげられる人ばかりでもない。その言葉に傷付く人もいることだろう。皆、それぞれ色んな受け止め方があるから。



 先日、筆者も今の世界が決して好ましい状態ではないとし、本書の記事の中で『時間がない』と表現した。

「時間がない」とただ観察された結果をそのまま言っただけであり、そこにだからどうだという個人の思いや意見は言ってない。それに比べて、「ゲームなどしている場合ではない」はあきらかに踏み込み過ぎている。

 ニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』には、次のように書いてある。



●観察とは、~は~である、というただの事実(と思われるもの)を示したもの。

 しかし、だから~なんだと言うのは、個人的意見であり価値判断に過ぎない。



 人は、自分の信じたところを他者に伝えずにはおれない生き物である。そこに「人のため」という思いや大義名分が乗っかれば、その思いはさらに加速する。

 イルミナティの情報に精通した人からしたら、皆のためどうしても発信したいだろう。もちろん世界を救うために。

 その気持ちは分かるが、まぁ待て。

 情報を発信する上で、ただ事実を報道するニュースなどだったらそれほど問題ではないのだが、ただスピリチュアルがかったものや、思想信条にからむものに関しては、かなり慎重になる必要がある。

 その手の情報は、ただ事実を伝えるだけでなく「だからこう生きるべきだ、こう心掛けるべきだ」「こんなことはするべきでない」と、個人の自由に関わる領域まで踏み込んで、進言するようなものが少なくない。今回の「ゲームなどしてる場合じゃない」なども、気持ちとしては分からなくもないが、やっぱり勇み足が過ぎる。

 筆者は、この地球で「今」という瞬間を切り取って——



●ちゃんと生きれている人と、生きれてない人

●大事な情報を知っている人と、知らない残念な人

●良い生き方ができている人と、ぜんぜんダメな人生を生きている人



 そういう二者に分かれるみたいな考え方が、個人的に大嫌いだ。

 私は、声を大にして言いたい。そりゃ、結果として様々に見えるのは仕方がないが、人は皆一様に、その人に与えられた道をその人なりに一生懸命生きている。

 ひとそれぞれ違う道で、その人なりに一生懸命で、それでも仕方なく「イルミナティ」の情報など入ってこない人もいる。その結果日本が滅びたとして、じゃあその人物の人生はサイテーだろうか。大事な情報を知らず損をして、残念な人生だろうか。

 そうではない。



●仮に、本当にイルミナティなるすごい組織があったとして。

 彼らは、本当の意味で世界を支配することなどできない。

 そんなものは、世界の実質を何も掌握していない。我々の肉の命は奪えても、凡人が死ぬ中生き残れる特権を得ても。結局彼らは虚しい。

 何も知らず死にゆく我々のほうが、結果として幸せである。



 だから、私はそんなものを怖がっていない。

 人間、死ぬ時には死ぬ。自分の日々できることを、実直にやっていくだけ。

 その「やっていくこと」の範囲内に、実生活で気にするにはパズルのピースが合わない「イルミナティ」を恐れ警戒することは、含まれない。

 私は今後も、ゲームも楽しむしたぶんフツーに生きていく。その範囲外で起きたことは、もう降参する。

 私も一時期ハマったから分かる。自分は宇宙の重要な情報を知っているから、一刻も早くこれを知らない可哀想な人たちに知らせてあげないといけない。世界の破滅を阻止しなければならない——。

 そういう考え方は麻薬で、あなたの英雄願望、選ばれし戦士願望を満たしてくれる。でも、私はそれを追求しまくって、結局そこには何も崇高なものはないと知った。結局、それぞれがそれぞれでいい、というのが悟りなのだ。



 筆者がこの本書で、何か特定の行動や在り方を勧める文章を書いたとしても。

 それは、こういう「真実」があるから、マジでこうしないとマズいよ、という意味合いではない。何度も言うように、ここは私が個人的に言いたいことを言っているだけのところだ。なんら、真実とやらではない。

 だから「ゲームやってる場合じゃない」とい言い方は、私ならしない。

 個人的にはゲームやってる場合じゃないという思いは湧くけど、それを他人であるあなたに押しつけはしない、と言うだろう。いや、そんな面倒な表現になるくらいなら、最初から言わない。

 個人の自由の領域に踏み込むことは、発信者にとってはかなり危険度が高いのだ。 

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