ここまで上がって来い、では救われない
『キーピング・ルーム』というアメリカ映画がある。
もう旧作の部類だが、この作品が世に登場した当時は「見れるのはツタヤだけ!」 というふれこみでツタヤだけでレンタルしていたのだが、裏を返せば窓口がそこだけなのは「どこもが扱いたいような作品ではない」。
ぶっちゃけメジャーでないということ。見るからに、B級映画のにおいがプンプン! 筆者が借りる当時、なんとなくハズレの予感もして不安もあった。
それでも、やっぱり何だか惹かれたので新作料金を払って借りてきた。で、見た結果なのだが——
●面白くなかった!
お話としては、まったく盛り上がらない。
ジャンルとしてはシチュエーション・スリラーに当たるが全然緊張感がない。
終わり方もあっけなく、「え、それで終わり?」みたいな。だから、皆さんには胸を張ってオススメはできない。決して面白くないし、たまの休みに見て元気になれるような映画ではない。
ただ、学ぶところはあった。今から、だいたいのあらすじを紹介してみよう。
これで、お金出して借りずに済むね!(笑)
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場所はアメリカ、時代は南北戦争。
南軍の敗北が濃厚で、北軍がどんどん進軍してくる。そんな、南軍の領土にすむ二人の姉妹と黒人女性の召使い(つまりは奴隷)の3人が主人公。
父は兵隊で取られ不在(恐らく戦死)。女3人だけで、暴徒と化した兵隊の襲撃におびえながら暮らしている。彼女たちの住む村には、ジイサン以外の戦える男は誰もいなくなっていた。つまりそこに残された女子どもは、自分を守る手段を持たない。
姉妹のうち姉は勝ち気で男勝りな性格。父のいない今、家を守るのは自分だと、射撃も会得しそれなりに強くなる。妹の方は、気弱で何もできないタイプ。
その妹がケガをしてしまい、どうしても薬を手に入れる必要ができてしまった。
外出を控えていたが、薬を得るためにはそうも言ってられない。姉はライフルを持って、知り合いの酒場(よろず屋的な役割もあった)に馬で出向く。
最悪なことに、その酒場に北軍の荒くれ兵がすでにいて、姉(オーガスタという名前) を見るなり『マブい
とっさの機転でオーガスタは何とか逃げ切るが、ヤラないと気が済まない男たちは彼女の後を追う。そして、家が突き留められてしまう——
さぁ、家に立てこもった女たちと、攻め込もうとする男たちの戦いの行方は? 3人の女たちは自分自身を守りきれるのか、それとも男たちの魔の手に落ちるのか?
そういうストーリーである。
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戦争につきものというか、戦争が起きるとだいたいセットになるのが——
●金品略奪・婦女暴行
このふたつである、とあるひねくれた(だが鋭い)歴史の先生は言っていた。
悲しいかな、人間とは素晴らしい生き物ではあるのだが、これは真実である。
戦争の時に起きるこういうものは、何も根っからの「強盗好き」であるとか、根っからの「強姦好き」な人間ばかりが起こすわけではない。むしろ、戦争という異常な状態さえなければ、そういうことに手を染めなかったと思われる人物がやってしまうものだ。
この映画に登場する、主人公オーガスタを追い詰める男も、戦争という狂気さえなければ普通に暮らしていたかもしれない、と思わせる人物像であった。
『衣食足りて礼節を知る』という言葉があるが、まさにその通り。
それが足りてない状態、生き物として切羽詰った心身の状態こそが、狂気の行動に駆り立てる。もちろん、最終的には本人責任であり、私は「悪いのは社会で、本人たちは被害者だ」と言いたいわけではない。当然悪いことをしているので、その裁きは受けねばならない。
チャラにするなどもってのほかである。
ただ、こうは考えられないだろうか。
戦争が起きると、金品略奪・婦女暴行が起きる。なら、今の時代は?
もちろん、今は戦時中ではない。見た感じ、平和である。特に日本は。
でも、ニュースなどで聞くことがあるだろう。強盗殺人事件や、女性が被害に遭う事件を。確かに、世界全体としては戦争状態とは言えないが、個々人レベル・マクロではなくミクロ視点で社会を見た時に——
●金品略奪・婦女暴行を犯す人の人生の中では、この世は戦争状態にある。
まれに、サイコパスと呼ばれる根っからの殺人者や強姦魔もいる。それは、また別個に考えていかねばならないが、ほとんどのケースで元をだどればそんなに悪人でもなく、むしろいい人。
それが過重なストレスやプレッシャーをかけられて、歪んでしまった結果なことが多い。もちろん、だからと言って実行していいという話でないのは何度も繰り返す通りである。
今の世の中の主流な考えは「やればできるから、這い上がって来い」である。
やればできる。あきらめなければ夢は叶う。頑張れば成功できる——
そういう考え方が、よいものとされている。確かに、その通りではある。でもこれは、今前向きに生きようとしているような人種の励みにしかならない。
今立ち上がれない人、今元気が出ない人には裁きの言葉なのである。
●頑張ればできる、というのは裏返せば「頑張ってないからできない」のである。
絶対に成功する道があるという考えは、裏返せば「今成功できないのは、どこかが間違っているから」である。だから「やればできる」という言葉は、励ますというより今苦しい人のケツを叩くような話にもなる。
成功者は、時に迷惑な存在である。
国や政府にとっては、実に都合のよい宣伝材料である。
ホラ、(国や社会の在り方のせいにしなくても) こうやって成功している人もいるじゃないですか。何かのせいにしないでも、信じて頑張ればこんなふうに報われるんですよ!
……と、そのように錯覚させやすい。何かのせいにしない生き方、というのは一見正論なので、うまく社会システムの矛盾や盲点から世間の目を逸らし、現状維持のまま庶民に頑張らせることができるのである。既得利益を得ていてそれを自分が生きているうちはキープしたいやつらからすると、ウマウマなのである。
成功者様様、である。
この世で、過重なストレスもなく適度に働いて豊かな生活ができる数は、席数が決まっている。限られた椅子取りゲームにすぎないのに、「皆が座れる」とウソをついている。
そして、本書を読んでいる方の多分半数以上は、残念だがもうその椅子取りゲームの勝敗が決している。あなたが多少スピリチュアルや自己啓発をやったからといって、目に見えた豊かさは大きくは変わらない。むしろ失う可能性すらある。
ビートたけしも、何かのインタビューで「やれば何でもできる、という風潮はどうかねぇ。やってもできないやつからしたら、腹立たしいだろうねぇ」という趣旨のコメントをしていた。
●できているやつもいるんだから、言い訳するな。
この思想が、世界を壊す。
筆者は、切羽詰った人間が、その人らしくない犯罪を犯していると言った。
その反論として出てくるだろう意見が——
「同じ状況に遭遇しても、そのようになる人もいれば、ならない人もいる。だから、甘えさせてはいけない。ちゃんとできる人もいるんだから、無理な話ではない。そこは、ちゃんとやれよ」
このような、「ちゃんとやれて問題ない人もいるんだから、そのラインまで這い上がって来い」精神では、最終的に問題を起こさなかったエリートは作れても、それはある程度の犠牲の上に成り立っているにすぎない砂上楼閣であり、何ら誇れる成果ではない。
むしろ、100%全員は難しくても、ひとりでも多くの人に「人並みな文化的生活を」してもらうために、特性のそれぞれ違う大勢にどう生きてもらうか、衣食住分の感謝の還元として、何をしてあげられるのかを考えていくことが大事になってくる。
おれらはちゃんとやってるのに、できないとはけしからん。
いくら切羽詰ったかは知らんが、結果こういうことをするのは人間のクズだ!
そんなものの見方が、自分のことだけで精一杯な現代社会で蔓延してきている。
個人が追い詰められてそこここで「小さな戦争」を始めてしまう前に、何とかそのシグナルに気付けないか?
気付いても、関わり合いになるのが面倒なので、見て見ぬフリをするか?
(結果的に無視し責任は逃れても、後で寝覚めの悪い思いをすることも多い)
特に今の時代、個人レベルの「小さな戦争」の萌芽に気付き、その芽を摘んでいくことが重要となる。
現行スピリチュアルでは、「他人の幸せの前に自分の幸せ」みたいなことを言ったりする。だから、このアイデアは先に自分の幸せを堂々と追える免罪符になっている。でも、それでは遅い。
いったいいつになったら、あなたは世界を変える側にシフトするのか、と聞きたい。結局死ぬまで、「自分の幸せ」さえクリアできなかったりして!
特に自分はスピリチュアルの世界において使命があると考え、それで食っている者は、自分の幸せよりも世界のことを考えて、自己犠牲で頑張れ。
間違っても、ブログやSNSで自分の幸せ度をアピールしている場合ではない。
もう、時間は思うほどは残されていない。
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