単純思考の持ち主は怖い

 米陸上選手のタイソン・ゲイ選手の15歳の娘が、午前4時にレストランに居合わせた際銃撃戦に巻き込まれ、流れ弾が当たり亡くなった。別に狙われたわけではなく、文字通り他者の犯罪に巻き込まれた形。

 まだ未来ある身での痛ましい事故で、スポーツ界や世間からも哀悼のメッセージが寄せられた。ただ、そんななかで、チクリと刺すような意見もあった。



●15歳で、午前4時にフラフラしてたのか?



 つまり、ただ「かわいそう」ではなく、15歳の身でそんな時間に出歩いているやつにも責任はないのか(自業自得ではないか)という、被害者本人の落ち度も問うような見方だ。

 筆者は、そのような意見を胸を張って言う人を見ると、ちと寂しくなる。究極には「評価のしようがない」というのが正確な事件だからだ。

 ただ、いついつどこどこでこの時間にこの場所で銃撃戦があり、そこに居合わせた15歳の女性が巻き添えをくって死亡、身元を調べたらたまたま有名陸上選手の娘だった、というただそれだけの情報しかない。その材料だけで、この事件を判断するのは無謀だ。

 普段自分主体の思考をしない、飼いならされた単純思考しかしない人の頭は——



①午前4時という時間に外にいる

②しかも15歳



 このたったふたつの条件だけがあって、もっとも想像しやすい状況が「この子は不良」である。そんな時間に、未成年がほつき歩いている。そりゃ、世間を甘く見てるやんちゃ娘なんだろうさ!

 人間は、少ない情報しか与えられない場合、ともすれば足りない部分を経験上の勝手な憶測で補い、自分に一番分かりやすいストーリーを作りたがる傾向がある。

 たいがいの人は、足りない情報を自分勝手に補っていることを自覚できず、そんな適当なことをしておいて、自分は常識的な判断ができてるように胸を張る。それで、自業自得な愚かな若者たちに物申してやった、みたいな優越感まで得る。



 筆者はクリスチャンだった時代、朝の4時に起きて出かけていた。

 もちろん、私は不良ではない。行くのは教会である。

 結構気合の入った教会で、平均的な教会よりはちょっと熱心すぎたかもしれない。その点でご新規さんには気を遣う。最初に「信者やるのってこんな大変なんか?」と思わせたらまずいからね。

 朝の4時(つらい人には5時の会もつくった)に、聖書を集まった者たちで1章ずつ輪読する。した後で、皆で感想や気付きを分かち合う。それを習慣にしていた。

 もちろん、どうしても遅刻とか体調不良とか以外は土日祝関係なく毎日である。今思うと、よくあんな日々を3年も送れたもんだと思う。

 意欲に燃えていたので、きついとか苦行だとかはあまり思わなかった。教会が使えない時は24時間営業のファミレスで、声を落として(あるいは黙読で)やった。

 もちろん、日本だからそんな時間でもアメリカのダウンタウンなんぞよりは安全だ。その分、同じに考えてはいけないが、それでも4時に街に出歩く「事情」は筆者にはあったのである。



 冒頭のニュースでは、娘さんがいったい何の事情があって朝の4時に外にいたのか、の情報がまったくない。ない上に、人が一人亡くなっているのだ。そこを憶測で「そんな時間に出かける不良娘も悪い」とは何事か。勝手に決めるな。

 色々な事情、可能性が考えられるではないか。 

 百歩譲って、本当に「放蕩娘」だったからそんな時間に外にいた可能性があるにしても、現時点では「分からない」のだ。せめて、分からないから娘さん自身の責任に関してはノーコメントにはできないのか。黙ってられないのか。

 最近の日本人は、何かと言うとあげ足を取るのが好きになった。それでその人物が社会で生き辛くなっても、「自業自得」「当然の報い」くらいにしか感じない。自分がその立場になる可能性を、まったく想像することができない。

 いや、自分がそんな目に遭ったからこそ、他人も同じ目に遭えという復讐心もあるかもね。



『ごんぎつね』という日本の文学作品がある。小学生の国語の教科書によく出てくるお話だ。

 最初、悪さばかりしていたごんぎつねは、ある時反省して迷惑をかけた男の家に食糧をこっそり運ぶようになった。しかし、ある日その姿を男に見られたごんぎつねは、性悪狐がまた悪さしに来たな、と勘違いされてしまい猟銃で撃たれてしまう。

 男は撃ってしまってからやっと、日頃食糧を置いていくのがそのきつねだったことに気付くという、なんともやるせない話。これなども——



①あの性悪ぎつねが家の前にいる

②ならば、きっと悪さをしに来たにちがいない



 そういう、「情報がない中で自分で勝手に一番あり得る可能性を真実にまでまつり上げる」という一番愚かしい人間としてのさがを発揮したのである。男は、かつて確かに迷惑をかけられたとはいえ、一番の恩人を自らの手で殺したのだ。

 だから、悲劇というものは、『足りない情報を勝手に補う』ことから起きる、と言っても過言ではない。ロミオとジュリエット、などもそのケースである。



 とりあえず今確かなことは何で、どこからが勝手な想像や先入観になってしまうのか? そこさえ立ち止まって考える習慣さえあれば、あなたの人生の苦しみは半減する。悲劇の多くは、あなたが無意識の内に勝手に下す、経験則上擦り込まれた外界へのレッテル貼りが引き金になるのだ、ということをお忘れなく。

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