人間の弱点は、一度に意識が注げる範囲の狭さ
ある日のこと、筆者は車の運転中かなり最高潮にトイレに行きたくなった。
目的地である自宅に着くまで、あと10分少々。その間に、立ち寄ってトイレを借りられるようなコンビニもない住宅地界隈。
私は、必死に……こらえた。意志のパワーをフル動員して、肉体を従わせようとするがしかし、腰の筋肉は合戦で負けている軍の兵のように、総大将である私の脳に報告してくる。
「殿! まもなく敵軍は本陣に斬り込んできます!」
「……もはやこれまでか」
何度、もはやこれまでと思ったことか! 私は車を駐車し、家の鍵を回してトイレにダイビングするまで、何とか持ちこたえた。思いっきり閉じていたものを解放した瞬間には、「悟り」に似た心境を味わった。
正直に言うが、私はこの瞬間——
世界の問題など、忘れた。コロナの感染状況、オリンピックの日本人のメダル獲得数などどうでもよかった。格差社会、貧困問題、教育問題、テロ問題もこの瞬間だけは取るに足らない問題だった。
世の中の一切の悲惨、考えなければならない問題などどうでもよかった。自分のこと(出すものを出したい)以外、本当にどうでもよかった。
もちろん、何ともない平時には、今あげたような諸問題について私なりに考え、時に心を痛めている。しかし、この時ばかりはすべて吹っ飛んだ。器用に、他の心配までできなかった。
かつて筆者が、成人障がい者の通所施設に勤めていた頃。
そういう方々が利用する宿泊施設も、法人の事業として併設されていた。
日中は施設の職員であるが、交代制でそちらも担当させられた。
その当時、よく宿泊を利用される常連の障がい者の方がいた。40過ぎの男性で、仮に名前をKさんとしよう。
Kさんの最大の特徴は……「夜寝ないこと」である。
じゃあいつ寝ているのかというと「気が向いた時」あるいは「眠気の限界に達した時」である。この時間からこの時間(夜間)に人は寝るもの(他人も)というのが、その方には知的に分からない。
結果夜寝ない分、Kさんは通所施設での日中の作業中にウトウトしたり。
とにかく、規則正しく寝る習慣がないのである。他人から「寝ましょうね」と強要されようものなら、ムキーっと怒られる上、テンションが上がって余計に寝ない。
怒ると多少殴りかかってくるが、Kさんは非力(ヒョロヒョロで、動きもゆっくりなのでこちらは少林寺拳法の達人みたく攻撃をかわせる)なので大して脅威ではないが、敵意を向けて殴りかかられるのはやはり気持ちの良いものではない。
こちらも仕事であるし、サービスする側。相手は「お客様」なので、相手が寝ないなら、こちらも合わせなければならない。
こちらが正当な権利を主張して普通に寝たら、その間にKさんは勝手に施設をエスケープする可能性が高かった。実際、その施設の歴史上で一度本当に脱走している前科がある。
夜、施設を「脱走」でもされて、外で問題を起こされたり最悪車にはねられた……とかなったら、どえらい責任問題である。
ここで、もしこちらが健康的に仕事ができていたら、「Kさんが心配だから」という発想もできるが、追い詰められてギリギリのところで仕事してると、最初に発想するのはKさんへの心配や思いやりよりも「問題が起きないか? 自分がマズイことになりはしないか?」である。
とにかく、無事にその時間が勤め上げられたら(Kさんを来た時の状態で親御さんにお返しできさえすれば)、もうそれでいい。
筆者は当時、何度となくそのKさんの担当になった。日中が休みで、夜勤のシフトとかじゃないよ。日中は普通に仕事して、通所施設での勤務が終わったらすぐに宿泊の面倒を見に行く。で、こちらは疲れているのに相手は夜寝ないんだよ?
私は、眠気と格闘して寝ないKさんの様子を見張りながら、何度か思った。
「この人さえいなくなれば……」
過去あった相模原の障がい者殺害事件の犯人が正しい、という気は全くない。私はKさんの普段の素敵な所を知っていた。ただ、さすがに極限状態ではそれが出て来なかった。いや、たとえ思い出せてももあまり良い仕事ができなかっただろう。
Kさんの両親のこともよく知っていた。本当に子ども思いで、Kさんに振り回されながらもそれでもしっかりと面倒を見られていた。(お母さんに無理して倒れられても困るので、定期的に息抜きのためにお預かりしている面もあった)
Kさんが愛すべき人であり、また必要とされ大事にされている命であることを理解できていてなお、私はKさんを憎んだ瞬間が間違いなくあった。
それを繕う気はない。
最初に紹介した、トイレの我慢の話。
そして、二番目のKさんにまつわる私の過去の告白。
両者に共通することは何か、分かりますか?
●人間の意識は、本来あまり器用ではない。
一つのことにフォーカスすれば、他の背景がボヤける。背景に再び焦点を当てるためには、今フォーカスしているものを手放す必要がある。
目の前のものも、同時に背景も、と両者均等にフォーカスはしきれない。
人間は、自他というものを認識する前提の「エゴシステム」で動く宿命がある。
「自分」という軸から対象としてしか世界を認識できないので、畢竟視点は自己中心なものになる。
特殊な努力をしないと、客観的に観察できない。だからわざわざ、倫理道徳や宗教、スピリチュアルや自己啓発なんてものがいるのである。そういう道具でも別途ないと、普通は偏りなく物を見ることが難しい。
同時に二つ以上の事柄に、まったく同じだけのマックスエネルギーを注いで配慮できるということは、絶対不可能とは言い切らないが、かなり難しいのは確かである。
だから、切羽詰って大変な人に「震災でタイヘンな人のことを忘れるな」「今この瞬間も地球のどこかで誰かが餓死し、一分に数人が自殺をしているのだ」とか言うのは酷である。
施設の職員を精神が病む手前まで酷使しておいて、「障がい者は世界からいなくなったほうがいい」、なんてたとえ一瞬でも考えるのは人間のクズだ!というのも、ちと釈然としないものを感じる。
時として、人が(皆さんが言う) 愛に生き切れないのはしょうがない。
でもしょうがないからといって、常軌を逸した行為や犯罪がゆるされるということではない。だから私は、こう考えることにしている。
●その瞬間に意識が何を最大フォカースしているかについては、もう仕方がない。
同点1位でなくても、世の中で普通に大事なことは2番目以降でもいいというルールにはしておく。世界平和や皆の幸せが2番でも、こちらが大変な時はゆるしてもらう。決して、本当にどうでもいいのではない。
究極にトイレに行きたい時には、正確には「今トイレにさえ行けたら、世界がどうなろうが他人がどうなろうが構わない」 のではなく——
『今一番叶えたいのは確かにトイレに行くことであるが、でもそのことさえないなら世界平和も大切な人の幸せも大事。そっちへの意識は水道の水漏れ程度で申し訳ないが、今はそれで許してちょんまげ』ということである。
人は、感情を強く揺さぶられる体験をしたタイミングでは、どうしてもその問題の解決しか瞬間は願えない。かなり宗教的、スピリチュアル的な「訓練」を積めば、目の前の過酷な体験に関係なく高尚な思考ができるようになるのかもしれないが、自然体でそうできる人はまれである。ほとんどの人は自然にではなく、無理をして背伸びをすることになるだろう。
仮にそれができたとして、筆者にはそれが人間としての最高な精神状態だとは思えない。
●無理をして、頑張って得た「人工的立派な境地」に何の価値があるのか。
ある切羽詰った瞬間に、「アイツ死ねばいいのに」とか「これさえ何とかなるなら、他はどうなっても構わない」と思ったら人間として最低なのではない。
例え一瞬そういう闇の思考がよぎっても、結局軌道修正できることが人の素晴らしさである。決して悪いことを思わない人が素晴らしいのではない。
●闇を排除して完璧になれる人より、闇と共存できる人の方が人として素晴らしい。
もちろん、そうできずダークサイドに
これからの時代は、切羽詰った人を、詰まっていないあなたがどれだけその立場を察し、接してあげられるかが鍵。それができない世界なら、互いの「温度差」に気付かず、どんどんと瓦解していくだろう。
逆にあなたが切羽詰った時、世界を見まわしてみるといい。
自分が平穏だった時に何が足りなかったのか。そして今、何が世界から欲しくても得られないか、がよく見えてくる。ただ、分かったのが遅すぎないとよいのだが。
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