シン・神との対話
筆者も気に入っている庵野秀明監督の映画 『シン・ゴジラ』から、劇中のあるシーンを取り上げて話題にしたい。これだけ話題になり、ずいぶんと上映後の期間も経っているので、少々はネタバレしてもよかろう、と思うので。
見たことない、という方はできたら見てほしい一作である。
通常軍事兵器がゴジラに通用せず、無力感をかみしめる日本。
どうにかしてゴジラを倒す方法を探ろうと、特殊研究チームは唯一ゴジラを研究し追い続けたとされる牧悟郎という元生物学教授の残した『暗号資料』の解読に挑む。
その教授本人がいれば解読方法を聞けばいいのだが、残念ながら映画冒頭に自殺してしまいこの世の人ではなくなっている。
広い紙の上に、細かく訳の分からない記号と複雑に入り組んだ無数の線が踊ったその暗号に、ゴジラ対策の精鋭チームが挑むが、頭をひねるばかり。いっこうに、書かれている意味が分からない。
その時、チームの一人が、ボソッとこうつぶやく。
●何で、(この時代に)データではなく『紙』なんだ……?
今や、コンピューターの時代である。
一般のオフィスでもペーパレス化は進んでいる。国家機密系の重要な図面や書面であれば、なおさらだ。デジタル化したものでないと、破れたりコーヒーがこぼれたり紙質が劣化したり、盗難に遭ったりしたら一大事だ。
ゴジラを倒せる世界一重要な情報が、紙でしか残っていないなんて!
そこで、逆の発想をすることでチームはあることに気付く。
●なぜ紙なんだ? → 紙である必要がある理由があったのでは?
暗号が紙にかかれていないといけない理由……そうか、『折り紙』だ!
ある折り方で紙を折ると、つじつまの合う分子構造図のようなものが現れた。それで、ゴジラの「科学的弱点」が割り出せたわけである。
きっと、「なぜ紙なんだ?」というように、書かれてある素材自体への疑問がなく、ただ紙に書かれてある「情報」のみに意識を取られたままでは、ずっと解読できずじまいだったろう。
4+●=10、という等式が成り立つとして——
●を求めるためには、「10」だけを見ていても仕方がない。
10から4を引く、という作業が必要である。結果の10だけでなく、結果が出る前の4という情報も使用しないと、答えは見えて来ない。
これを、現実問題に当てはめる。
10は、この世界における「観察される物事の結果」だと考えてほしい。
誰々が何々をした。成功した失敗した。怒った、泣いた、笑った。ニュースで報道される内容。
我々はともすれば、その「10」だけを見て、割と簡単に最終的判断とする。誰かが悪いことをしたら、「ああ悪いヤツ。こんなやつがいるから世の中は——」 みたいな感想となる。誰かが笑っていたら、「ああこの人幸せそう」「きっといいことがあったのね」。
……それは、分からないよ。
本人の立場を本当にトレースして経験してみれば、確かに結果としてやったことをゆるすわけにはいけないけれど、そうなる経緯は十分に理解でき、「ただのゲス野郎」という印象にはならない場合もある。ある意味この世界の被害者でもあると理解でき、批判し攻撃するよりも「自分たちを含め社会がどうあるべきか、考えさせられる」という視点も開ける。
笑っている誰かさんも、実は個人的にタイヘンな事情を抱えていて、それでも周囲に心配かけまいと(あるいは弱みは見せまい、と強がって)気丈に振る舞っているだけ、というのが真相かもしれないのだ。
結果の「10」だけを見るのではなく、4+●までちゃんと見ようとするのが誠実な姿勢。
●結局、大事なのは物事(すべての対象物)との対話なのだ。
『ドラゴン桜』という大学受験のコツを描いたマンガでも、「テストで大事なのは、出題者との対話である」ということを言っている。
出題者は、別に受験者に意地悪をしようとしているわけじゃない。(と思いたいw)僕が君に答えてほしい答えはこれなんだけど、さぁ君にはこれが分かるかな? と問いかけてきている、というイメージ。そして受験者は、問題文の中から「出題者の意図」を読み取ろうとする。
普通にただ「点数を取るため」だけに勉強だけをしていたのでは、出て来ない発想だ。出題者との対話、という姿勢を持つことで、漫然と義務として勉強をする者とは大差がつく。
ゴジラの話も、「暗号を残した教授との対話」の道であったのだ。
ただ、データとにらめっこしていたのでは、永遠に解けない。教授の意図、にまで想いを向ける必要があったのだ。
紙にした意図とは? 教授は、この図面と向き合う者に何を問いかけているんだろう? と。
昨今、現代人はこの「対話」を軽んじているように思える。
自分の目が見たままにした解釈を疑いもなく信じ、あらたな情報を求めて修正したりアップデートしたりもしない。たとえやっても、それはニュースの情報とか他人の噂とか、対象物そのものにダイレクトに迫る努力をする者は少ない。
事情でそれができない立場でも、少なくとも「この判断は、覆る可能性もある」と謙虚に考えることもできるが、それもしない。
皆、面倒くさいのだ。与えられるものをホイホイ信じる方が楽なのだ。
いくら海援隊が『信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷付くほうがいい』と唄っていても、それとこれとは話が別だ。疑う、という言葉にするとイメージが良くないが、その視点は生きる知恵としては必要である。逆にないと、色々な意味でこの世界の意義を満喫できない。
ただ、現れ出でた現象だけを分かりやすく判断して生きるだけではなく、「対話」 を試みてみるといい。すると、相手はまた違った表情を見せてくれる。
対ゴジラチームは、『
●これこそが本当の、『神との対話』である。
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