押したり引いたりが人間関係
今回紹介したい禅の言葉は、『
えっ、挨拶って「おはよう」とか「こんにちは」っていつも使うあれ?
そう思う方も多いだろう。実は、何気なく使ってる言葉が、禅の言葉が語源であることも多い。ちなみに、そもそもの「挨拶」という言葉の意味は——
●「挨」も「拶」も、「迫る」「押す」という意味があり、師の立場の僧が、弟子の僧と問答をして、その悟りの程度を確認することを「挨拶」と言った。
現代では、そこまで深く挨拶を考えている人はいない。
人間関係やその日の業務を円滑にするために、最初に出会った時に儀礼的にするもの、くらいにしか考えていない。
もちろん、明るく元気に挨拶しよう、とか心からの感謝を込めて、とか挨拶により積極的な意味を持たせようとしている「少々意識の高い人」も中にはいるだろうが、それでもまだ挨拶のもともとの意味にまでは到達していない。
禅僧の師と弟子が問答するということは、人同士の「真剣勝負」である。つまり、挨拶とは真剣勝負である。
人と人とが最初に出会ってするものが挨拶ならば、それは「人間関係全般」を象徴する。すなわち、人間関係とは「真剣勝負」なのである。
人の日常でそこまで言うと堅苦しくなるので、ちょっとレベルを落としておとなしめに言うと『相手に心を開けるかどうか』だと言えよう。
皆さんは、朝誰かと挨拶してから、ちょっとでも「心を開いた」覚えがありますか? 胸を張ってそう言える時間を、日々過ごしているでしょうか。
仕事だったら、かなりできてないのではないか。表面上の付き合いの友達とかも、挨拶してから別れるまで自分を取り繕ってばかりで、ちっとも「心を開いている」瞬間がなかったりするのではないか。
押したり引いたりどころか、それがそもそも面倒なので、そうせずに済むように意図的に「調整している」でしょ。押すと相手の反応に対応するのが面倒だし、引くと自分に対する相手の評価が気になるので、「引いたということが分かりにくくなるように、ボカす努力」をする。
結局努力するなら、繕う努力よりは、ストレートに出てからする努力のほうがいいのに。
もちろん、あるレベルに達した者には、すべての人が「心を開いている」ように認識できる。
一般のレベルで「心を閉ざしている」と表現できる状況もあるが、それだって心を閉ざしてますよというメッセージを思いっきり伝えているわけで(笑)、そういう視点では「心を閉ざすなんてことは不可能」。何をしたって結局、心を表現する(開く)ことになるのだ。
でも、そのレベルで人を見れる人は少ないので、皆さんはやっぱり「心を開ているかどうか」を気にすることが必要である。「閉ざしている」なら「開く」という必要がある段階だろう。
そういうことで、挨拶とは人と人とが絡む全般がどう在ることが推奨かを端的に言ったものである。
挨拶しあう人との日々の関係が、「わたしは心をオープンにして、あなたと押したり引いたりをする準備ができていますよ」と迎え入れられるものであるように。
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