愛に応えたいと思う時にのみ行動となる

【掬水月在手】 (みずをさくすればつきてにあり)



 なぜ自分には良いことが起こらないのだろう、と考え他人をねたんだりひがんだりしていると、だんだん自分がちっぽけに思え心も荒んできます。

 月の輝く夜、水を両手で掬い取ってみれば、その水面に必ず月は姿を映し、キラキラ輝くはずです。月の光は地上のすべてのものに平等に注がれていますから。月の光にあなたが無視される、などということはありません。

 月の光は仏の「慈悲」であり、仏法そのものです。



 自分とはかけ離れた、遠くにある美しいものとして月を眺めているだけでは、その大事なものに気付くことはできません。「水を手ですくう」というあなた自身からの自発的な働きかけがあってはじめて、月はあなたのものになる(だって、今まさにあなたの手のひらに、月があるじゃありませんか!)のです。

 月が遠い空の向こうのものではなく、まさにあなたの内に在る(あなたが月を持っている)ものとして感じることができるようになるのです。



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 ある、愛し合っている男女のカップルがいる。

 まぁ一応、二人の仲はそれなりにうまくいっている。

 でも、男性は繊細なのか情が深いからなのか、ついある考えに囚われてしまう。

 本当に、自分は相手(女性)のことを分かっているだろうか? 自分が分かったつもりになっていて、相手がやさしいからうまくいっているにすぎないのでは?

 毎日仲良くデートなどして過ごしながらも、そんなふうに「本当に今のままでいいのか?」と憂えている。

 もしもの時、相手側の「ゆるし」によって成り立っている男女関係は弱い。ちょっとの事件でも二人の関係は破綻する。それが怖いから、男はもっと「今以上に彼女を知りたい、分かりたい」と思う。

 ああ、いっそのこと彼女の心の中に入り込んで本当の気持ちをのぞけたらなぁ!


 

 男性は、ただ葛藤するばかりで終わりはしない。

 踏み込むのはちょっと怖いけど、それでも踏み込むことを選ぶ。現状を打破するために。目の前の壁から逃げずに、それを突き破ってより素晴らしい二人の世界を見るために。

 この世界のことわりの肝要なポイントは「双方向性」ということである。一方通行は成り立たない、ということである。

 この世界では、すべてのものごとは「対の関係」であり「ペア」。両極があるブレンド調合で合わさって、すべてのモノや現象が存在できている。

 右左、上下、陰陽、男女。長短、強弱、緩急。カップルがいたら、女性から男性へ、男性から女性へ——

 この情的力のベクトルが、完璧でなくとも程よく双方向から流れていたら、素敵な関係である。どっちかに偏っては、関係の持続が脆くなる。

 宇宙規模で考えてもそれは同じで、宗教的な意味での「神の愛」であるとか、禅で言う「仏法の光」「仏の慈悲」というのは、太陽の光や月の光に例えられるように、差別なく分け隔てなくすべての者に平等に注がれる。

 イエス・キリストのこういう言葉もある。



●父(神)は善人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。



【マタイによる福音書 5章45節】



 ただし、すべての者に平等に愛(チャンス)が注がれている、という理解だけではダメ。あなたがそれを、つかもうと働きかけないと意味がなくなるのである。

 あっても、あなたが自分のものとしようとしないなら、向こうから与えられる光はないのと同じ。鍵と錠前の関係と同じで、どちらもが互いに働きかけてはじめて「成果」が現れ出でる。

 だから、宗教やスピリチュアルの屋台骨は「神はすべてを、私をも愛してくださる。何という恵み! ただ感謝です」ではない。「私もそれに応えないと」という、行動への誘いなのだ。

 今「応えなければならない」という、~べき的な義務感のニュアンス漂う言葉を使ったが、誤解しないでほしい、あくまでも、あなたが自然に「突き動かされる」ということである。

 たとえば、母親から「おつかいに行ってきて」と頼まれた子どもが、「親からどれだけ愛されているか」「恵まれているか」が見えない子どもは、ただ「めんどくせーな」としか思わない。「えぇやだよー」とか言うかもしれない。今テレビいいところなのに、とか言えてしまうかも。

 でも、ある時に「母ちゃんって有り難いなぁ」と感じる経験のあった子どもは、もちろんタイミングによっては100%歓迎ではないだろうが、それでも基本「行ってあげよう」と思って腰を上げる。



●すべては双方向の作用。

 向こうから働きかけられる力だけでは、あなたは動けない。

 向こうからの光をつかんだ者だけが、義務感でも使命感でもなく進んで「光」に応えたいと思う。その発信元を、大事にしたいと本気で思える。



 最近のユルいスピリチュアルでは、この「双方向」を強調しないものが多い。

 どちからというと 「神(あるいはそれに類する高次な存在)からの愛、恵み」という、あちら方向から与えられるものに対して有り難いなぁ、とか感謝だなぁ、という雰囲気だけ。

 それを得るには、これこれこうこうという受け取り側の果たす「責任」を問わないものは安心して重宝される。何もできない自分、を見つめなくて済むから。もちろん、瞑想とか何かしらの「ワーク」の実践が求められることはあるが、それだってそう大した労力のいるものではない。ましてや苦痛とか大変さなどない。

 本来、精神世界は「行動」を求めるものなのだ。

 もちろんそれは、「~せよ」と義務を課すものではない。義務とならないためには、相手(世界・神)を理解しなければならない。

 理解すれば、納得する。納得すれば、それは行動に駆り立てる。

 世界(神 の愛と恵みが理解できたので、次はそれを喜ばせたい、支えたいという思いになる。その思いがあなたを突き動かし、義務感ではない自発的な「行動」に駆り立てる。



 そういう意味では、まず手順として「神の光」(自分は愛されている・恵まれている)を理解し感謝するところから始まらないといけないので、世のユルユルスピリチュアルにも意味はある。

 ただ、大勢が「感謝する」段階で止まっている。恵みを見つめていい気分、になってそこで止まっている。

 本物の感謝と理解は、その対象の願いを本気でかなえてあげたい、とい行動に間違いなく駆り立てると考えた時、感謝している神を理解していると口で言いながら、具体的に分かりやすい行動を何もしないなら、その感謝や理解はニセモノであり、あなたがそうできていると勘違いしているに過ぎない。

 だから、「心地よいことだけを選択する」を掲げる自己啓発やスピリチュアルはちと意識が低い。

 本気で「相手のため」と思うならば、そっちにチャンネルが合わさるので、そこであなたが取る選択や行動は「あなたが個人として純粋に心地よいこと」というものからは多少ズレてくるはずだ。時に、愛することは苦しいのだ。

 でも、その苦しいことでも、相手の笑顔を考えたら、別の意味での「心地よさ」になることは当然ある。スピリチュアル実践者が、今言った意味で「心地よさ」という言葉を使っているなら、素晴しい。

 ただ、多くの者は浅い意味での「自分の好きなこと、快を感じること」と考えているのが嘆かわしい現状だろうと思う。



 今回の禅の言葉の重要ポイントは、「双方向」である。

 女性が男性を、男性が女性を愛しているから、二人の関係は続く。

 世界が、神が、宇宙がすべての者に分け隔てなくあるものを与えている。それに気付かないあなたなら、あなたは自分にないものをあげつらって、不満をこぼす。

 しかし、あなたに注がれている光に気付いていたら、あなたはないものを挙げるよりは光に感謝し、自らを捧げて光に応えたい、ふさわしい自分で在りたいと自然に願うことだろう。

 自分はどうなってもいい。カケラでもいいから、愛する人の心を知りたい。そして幸せになってほしい。笑顔が見たい——。

 時に間違いながら、傷付け傷付きながら、人は光をつかんでいくものなのだろう。

 これを読むあなたが、いつか少しでもそれをつかもうとする「勇気」を振り絞られるように。

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