目指す者たちの挽歌

『中庸』という言葉がある。

 簡単な辞書的意味では——



①かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。「―を得た意見」「―な(の)精神」


②アリストテレスの倫理学で、徳の中心になる概念。過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとした。



 2番で考えている人は少ないだろう。一般人に馴染むのは1番。

 筆者はある時、この中庸というキーワードでネットサーフィンをして、色々なスピリチュアル関連(仏教関連も含む)のホームページを見ていた。すると、ある自己啓発っぽい組織のホームページで、こんな特集記事があった。



●『中庸』に生きよ!



 私は、この言葉に非常に違和感を感じた。こういう~せよというススメをメッセージする時に、発信側がまず考えなければならないことは、これ。



●生きよ!とススメているからには、その通りにすれば現実的に達成できるという前提がなければならない。ゆえにここで問われるのは、「中庸は目指せば、努力すれば現実に獲得されるものなのか?」 である。



 何かの試験で合格する、ということを目指したとする。

 これなら、その目的のために必要な「勉強をできるだけする」ということを積み重ねる努力をすることで、達成が叶えやすくなる。

 夏休みの宿題を終わらせる。これなども、実際にコツコツやり続けることで、確実に 「終わり」が見えてくる。何もしなければ、当たり前だがいつまでたっても終わらない。

 例を挙げたが、こういうたぐいのことなら分かりやすい「努力」が必要だ。

 でも、中庸という意識の在り方は、分かりやすい努力や「目指そう、頑張ってなろう」とすることでは獲得できない。いや、逆に遠ざかっていくと言っても過言ではない。中庸と、試験の合格や技術の習得とは全然次元の違う話なのだ。

 努力すれば、あきらめなければ夢は叶う、と言う。でもこれは、そうして叶えられるものと同列に考えてはいけない種類のものなのだ。

 


 ちなみに中庸とは、意識して「そう在ろう」としたちょっとの時間だけなるものではない。

 意識して頑張って、ウルトラマンが変身できる時間程度「中庸になったぞ」というものではない。中庸とは、意識して注意して一定時間なるものではない。

 あなたが山田さんだとして、あなたは「山田さんであることを目指す必要がありますか?」4分程度そう思うとか。

 ないでしょう。

 そもそも、あなたは山田さんでしかない。24時間、あなたは山田さんであり、それ以外であることは逆に難しいはずだ。(ってか、無理)

 中庸とは、「私は中庸です」というレベルの話でしか使うべきではない。中庸そのものになる以外、「中庸に生きれている」とは言えない。

 中庸であるようにわざわざ意識して、「この時間は中庸でいれました」というのはニセモノのおままごとである。いや、それで十分でしょと考える方は、本書をそっと閉じていただきたい。それでいい方には、筆者の書いていることはまったく役に立たないだろうから。



 中庸とは、そのように努力して在ろうとすることでは「中庸」にはなれない。

 いや、正確には「自分がそもそも中庸そのものであった」と気付くだけ、認識が変わるだけなので、別にあなたが何か特別なものを獲得したり、生まれ変わったりするものではない。

 これだけは、目標を追い続けることではムリ。実は、他の分かりやすい目標とは、違うアプローチの仕方になる。



●最終的には、中庸を目指さない(あきらめる)ことで、達成できるチャンスがつかめる。



 例えばの話。あなたは中庸意識で生きたい、と願いスピリチュアル本を読み、その手の講演会やセミナーに行き、瞑想をし、とにかく求めまくったとする。

 しかし、いつまでたっても自分が「中庸」になる気配がない。それどころか、「目指す」という行為は一種の「執着」でさえある。

 偏りない自然な状態が中庸なのに、それを目指すというのは、皮肉にも人工的な偏りを生むこととなる。「偏りを手段として偏らないことを目指す」という、まことにおかしなことになる。



 それでうまくいくはずがない。

 そうして疲れ果て、絶望し「もうやめた。望み求めてはムリなんだ」と心底分かり、そこではじめてあなたは、これまでりきんできた手足を緩める。

 力を入れず、自然無為に寝転がる。

「あれっ!?」

 実はそういう時こそ、「中庸」を深い意味でつかむチャンスなのだ。意図しては無理だ、と徹底して分かった先に、正解が潜んでいる。

 徹底的に求めることで、それがムリだと分かって手放した時にチャンスがあるなら、ある意味では「意図して求めることによってはムリ」となる。

 またある意味では、こうも言える。

「たとえムリでも、ムリだと分かるためには求めるという段階が必要。その意味では、求めたら(最後までいけば)得られると言ってもいいのでは?」

 後者の意味を把握しているなら、私は「悟り」や「中庸」を求めていいと思う。

 ただ、かつてのあるAKBのメンバーのように「あきらめなければ、努力すれば夢は叶う」と言っているのと同レベルで悟りや中庸を追いかけたら、苦しいですよとは言っておこう。



 だから、スピリチュアルがかった自己啓発組織が「中庸に生きよ!」とメッセージするのはちょっと違うと思った。彼らは一応、それでメシ食ってるんだよね。スピリチュアルや禅の世界のイロハも知らない人に啓蒙していくには、ちょっと配慮がなさすぎ。もうちょっと、誤解を与えない言葉を選んでほしいものだ。

 何の心構えも積み上げた実績もない人に、いきなり「中庸に生きよ!」では99%誤解する。それでメシを食おう、それで徹底して生きていこうとまで考えている気合のある人は最後までやりきるだろうが、仕事の片手間やちょっと自分磨きのプラスアルファに、という腰掛程度の人なら結局まったく誤解したままで終わるだろう。



 何度も言うよ。

「中庸に生きよう」としている時点でアウト!

 だってあなたは今、「中庸じゃないからこそ目指す」わけでしょ。

 もう、認めているじゃありませんか。今中庸じゃないって。

 追えば追うほど、「そうじゃない」を強化しますよ。だから、一般人に向かい「中庸に生きよ!」というアドバイスはあり得ない。

 それは多分、言う側も実は分かってないんだよ、中庸ってものが。

 では、最後にちょっとしたヒントをあげよう。



 あなたは、今自分を分析して「中庸に生きれてない」と考えていますね?

 筆者からしたら、あなたはあなたがどう思うかに関係なくまさに「中庸」なんです。うっそ~、そんなわけないですよ、とあなたは言うでしょう。そのように返答するうちは、あなたは永遠に中庸など理解できません。

 あなたは今すでに、中庸を達成している。いや、それ以外ではあり得ていない。

 この文章の意味が分かるなら、見込みあります。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る