禅の言葉に学ぶシリーズ

悟りの要諦

『放下著』(ほうげじゃく)という禅の言葉がある。

 中国の唐の時代、厳陽という僧が趙州従諗という名僧を訪ね、このように質問した。「私はすべてを捨てました。さらにどんな修行をすればよいのでしょうか?」

 その時に、名僧が即答した答えが、この「放下著」。

 訳せば、端的に「捨ててしまえ!」となる。

 悟りの概念に対する感性のある人は、この説明だけで意味が分かる。良く分からない、という人のほうが多いかもなので、もうちょっと分かりやすく。



●捨てた、という認識(自覚・意識)すら捨ててしまえ!



 ……これが、本当に「捨てた」ということの神髄なのである。

「捨てたのだ」と知的に長く自覚している状態は、実はそこに何らかの「執着」があると言わざるを得ない。人間、頭に刻まれたことを一瞬で記憶喪失できるほど器用じゃないので、そりゃどんな名僧だろうが少しは記憶に留まるであろう。でも、凡人が捨てていないのに捨てたと思い込めている状態に比べたら、意識から薄れる速さが段違いではある。

 本当に「捨てた」のならば、その捨てたことすら簡単に忘れ去れるのだ。

 いつしか、「捨てた」という行為をしたのではなく、まるで空気を吸うように「当たり前の一部」になるので、殊更に捨てた、なんていちいち意識しない。ましてや「私はすべてを捨てました」と過去の実績として挙げられるなんて笑止千万。



 捨てましたよ、偉いでしょ? では、何の価値もないのである。

 宗教には、断食とか祈りとかいう行為がある。これらも、人の目を意識したり実行した事実を実績として数えている部分があるなら、虚しいものである。イエス・キリストはこれを『偽善』と呼び、他者の目や評価を意識した断食や祈りの行為を厳しく糾弾した。

 イエスのもとにも、ある金持ちの青年が訪ねてきて「私は、聖書で大事だと言われていることは全部実行しています。私にはこの上、何が必要でしょうか?」と聞いてきたケースがある。

 イエスがその時青年に言った言葉は、正解とか真理とかではなかった。ただ単に、青年の弱点を突いただけだ。「持ち物を残部売り払い財産を全部貧しい者に施し、私の弟子になりついてきなさい。」

 青年は落胆して帰っていったが、イエスは別に残念がらなかった。彼にはできない、ということが読めていた。その程度の人物だと見抜いていた。これを言ったら帰るだろう、と分かっていたから言ったので、決してチャンスを与えたのではない。

 勘違いさんを単に撃退しただけで、キリスト教が言うようにイエスを慈愛の塊に見立てて、「イエスは青年の選択をとても残念がった。悲しく思った」というのは、イメージの押しつけである。



●スピリチュアルにも、悟りという概念においても肝要なポイントは——

 素晴らしい意識状態、悟った(開けた)境地を、「自分はそうなっている」と捉えている状態では、実は悟りの入り口に立ったに過ぎないひよっこである。

 本当に悟った人が、日常「私は今悟りの境地にある」とか考えることはほとんどない。あっても、他人からそれを話題にされる時くらいで、あとはそんなことは考えに上らない。

「まさにそれである」ので、わざわざ「悟っている」と対象化して考えることができない。



 だから、冒頭に挙げた「すべて捨てたんですが、これ以上にどうすればいいですか」は愚問。

「あんた、捨てたけど、って捨てたことを成果として覚えているうちはまだまだだよ。自分の実績として数えていたら悟りなんて程遠いよ。捨てたということすら忘れる、というのが悟りの世界で『捨てる』ことに当たるのだよ」



 ある時、読者からの質問で「賢者テラさんは自愛、って大切だと思いますか」と聞かれた。

 私は、大切だと答えた。そりゃ、一般の皆さんにとっては、良いか悪いかで言えば「良い」ものにはなるだろうし、結構なことと答えた。

 しかし、じゃあテラさんはできてますか? できているなら、どうやったら自愛という状態が達成できるか教えてほしい、と言われたのだが、それはまた話の次元が違う。自愛が大事だ、とわざわざ明文化して目標にする必要があるのは、「できていない人」だけだ。

 正直に言えば、筆者はこれ(自分を愛する)に関して努力した覚えがない。

 確かに、賢者テラを名乗る以前は、著書でも明らかにしているが「劣等感のかたまり」であった。それが、ある神秘体験を通して、その頃から物事の捉え方がガラリと変わってしまった。

 今の私の正直な思いを言うと——



●自愛、ってナンデスカ?



 自分を愛さないといけない、というのが理解できない。

 愛さなきゃいけないもんなの? 愛せてないと、それは良くない状態なの?

 そもそも「愛する」って定義、地球規格できっちりしたものがあるの?

 なぜそんなことができているかどうかを考えなきゃいけないのか、分からない境地にいる。


※これは、皆さんへの説明のためにあえて言っており、普段自分がどんな境地(在り方)にいるか、など露程も考えることはない。



●禅の世界で「捨てたことすら捨てている(忘れている)」のが大事なように——

 スピリチュアルで色々な目に見えない概念知識や法則、方法論があったとしても、「自分はこれを実行している」「今、自分はこういう意識状態であろうとしている」などと頭でこねくりまわしているうちは、まだまだだということである。



 実行している、という客観性がほぼゼロになってこそ、その道のマスターレベルである。

 その分野において、日常的客観性の目がほぼ発動しなくなった時(いちいち自分はこれをしている、こういうのを心掛けているという認識が消えた時)、指導者としての資格がある。

 だから、わざわざ「スピリチュアル」という特定のカテゴリーで「これしてます」 「あなたもどうですか?」とやっているうちは、まだケツが青いのだ。多分。

 一般人と比べて私は特別な努力をしている、という視点自体が余計なのだ。

 セミナーやセッションに注ぎ込んだ時間と金をしっかり覚えていたり、これだけやったのだからそろそろ成果が出てもいいのでは? などと考えていたら笑い話である。だから、非二元を考えるグループとか、悟りを求めるグループとかいうのが最も悟りから遠い場合があることに、注意。



 分かれば(それ自体だと気付けば)本当に、悟りすらどうでもよくなるのだ。

 自分がどういう意識状態にあるのか、なんて気にならない。

 自分が自分を愛せているのかさえ、どうでもいいのである。そこに執着がない。

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