意図が削げ落ちる時

【両忘(りょうぼう)】



 白か黒か、イエスかノーかの判断を常に迫られるのが、この世の中。

 それも、この世界が「対立する二つの事柄」で成り立っているので、仕方のないこと。しかしこの黒か白かの二者択一、という二元的な考え方をやめてみろ、というのが「両忘」という禅の言葉。

 どっちなのか? と判断するのをやめて、両方の価値観から自由になること。

 この世界は、白か黒かハッキリすることばかりではない。正しい判断などできているのかどうかも分からない。ならば、曖昧なこともそのまま受け入れ、ただ瞬間を精一杯生きてみましょう、というススメである。



 綾小路きみまろの漫談で、こういうネタがあった。

 中高年の物忘れを題材に、こう皮肉った。



●何をしに席を立ったか忘れ

 長電話の用件も忘れ

 メモした事も忘れ

 探し物をして何を探してたか分からなくなり

 メガネを掛けてメガネを探し

 パンツの上にパンツを履いて

 お手洗いに行ってどっちを出すのか分からなくなり両方とも出してしまう



 で、極め付けがコレ。



●言った事は忘れ、言おうとした事まで忘れ、忘れた事も忘れました



 私たちは笑うが、ここに莫大な気付きのお宝が眠っているのだ。実これこそが、「覚醒」とか「悟り」とか言われることのひとつの「ツボ」だからだ。

 前回の記事では、禅の「放下著ほうげじゃく」という言葉を紹介した。捨てた、という意識さえ捨てろという意味であった。今回紹介する「両忘」という言葉も、それと似たところのある言葉である。

 今日も、皆さんがこういう言葉を受け止めて何か実践しようとする際に、陥りがちな「間違い」を指摘しようと思う。でも、間違いは悪いから指摘するのではない。

 自転車で、一度も転んだことのない方はいるだろうか?

 いても、それは「この世界にはあらゆる可能性がある」からいる、という程度のことで、そんなことはどうでもいい。小さい頃、何度か転んだりうまく乗れない体験をして、乗り越えて皆さんは今では「転ぶことなど考えられない」ほど乗りこなしていらっしゃるだろう。

 それと同じで、悟り系のメッセージやスピリチュアルな概念は、多少間違って実践してもそれはそれで肥やしになる。自転車の練習で転ぶのと同じ。だから、筆者の指摘は「転んで間違う期間が長すぎて、いい加減クリアして次のステージに行ってもらわないと時間が勿体ない」ような人向けに、背中を押すものである。



●結局、手段が目的になってしまう怖さ。

 こういう精神論的なススメはたいがいそうなる。



 今回の話で言うと、「そうか!白黒ハッキリサセさせなきゃ、という考えから自由になるといいのか!」と考えた次にその人がしてしまうことは——



●白黒ハッキリさせることから自由になる(白黒ハッキリさせない)ことを目指しだす。こだわらない、ということにこだわりだす。



 ……これがあるから、独学はむつかしいんですよ。禅とか悟りって。

 やはり、「師」のいない人は無理ではないが限界がある。ただしたとえ「師」がいても、世の中にはピンキリ色々いるので、いいのに当たればあなたは伸びるが、そうでなければ……ということになる。

 一番、他人に伝える(分からせる)のに苦労するのが、ここなんですよ。たとえ知的に分からせても、それは思考をなぞらせるだけで、結果意味なし。

 だから、結局は『両忘』という言葉すら要らないのだ。綾小路きみまろではないが——



●白か黒かハッキリさせることを忘れ(両忘)

 そしてついにその『両忘』を自分でしていることすら忘れ



 この境地が、禅である。

 もちろん、一口に言えるものではない。「禅」というスピリットは数えることも分けて考えることもできないものだろう。

 しかし、この二元性世界では光を受けたプリズムが、ひとつの光を虹色に見せるように、いくつかの「特徴」として表現することはできる。そういうことであえて一側面を言うなら、禅の境地は「行為者の消滅」であるとも言える。

 綾小路きみまろの言っているような状態になれば、それは場合によっちゃ悟りである。(笑)だから、こういうのは頭の良さやテクニックが一番邪魔なのである。

「こうしてやろう」という意図が、もっとも障害となる。意図によっては、両忘も放下著も達成し得ないのだ。

 ただ、ギフト(恵み)による。時の定めによる。ある日いきなり、「ああ、そういうこと!」と膝を打つ日が来る。

 その日までは、あまり高尚で小難しい理屈をこねくり回さず、今目の前のことを誠実にこなしていけばいい。焦ることはない。焦るほど、あなたは罠にはまる。



 実は、「行為者の消滅」なんて誰でもしょっちゅう体験している。

 たとえば、映画館で内容に引きこまれて、我を忘れる時。スポーツの本番真剣試合で、まさに時が止まったような全力の瞬間。

 ただ、それを平時には忘れるんですな。

 しかし、じゃあ覚者は「上記に上げたような瞬間しか体験できない境地を、ずっとキープしていられるのか? それはすごい」ということかというと、それは間違いである。キープなどしていない。ただそれが「自然」なのだ。

 自転車に乗れない子どもの自然は、「乗れないこと」だ。でも練習を積んで、ある時「あっ、乗れた!」となった時。その日を境に、その子どもの「自然」が劇的に変わる。「自転車に乗れる」状態が、自然だというほうに変わってしまう。

 そして人間側は、その日その時を意図の都合で勝手に決めることはできない。だから、果報は寝て待つ、しかない。



●「このように在ろう」と意識することを忘れ

 そのようなススメが書いてあるスピリチュアル本を読んだことも忘れ

 そのようなスピリチュアルがあること自体を忘れ

 この世界にスピリチュアルというジャンルが存在するということも忘れ

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