自然崇拝

 今でも、主にアフリカをはじめとする南半球に「自然崇拝」というものが根強く残っている。

 仏教、キリスト教、イスラム教とかそういう確立された大宗教とは違う、実に素朴なものである。

 その中心にあるのは、「畏れ」と「感謝」。ただそれだけで、実に立派な機能をその部族の中で果たしている。

 彼らの素朴だが人として(自然の中に生かされている存在として)あまりにもその自然な姿に、頭がいいと自分で思っている文明人が、お前たちのためだとか言って進んだ技術を持ち込んだり、自国の優れていると思っている宗教を無理やり広め植民地化したりしたことは、よかったのかどうかはなはだ疑問である。



 彼らの「自然崇拝」を教義化してテキストにしようと思ったら、ペラペラの紙1枚になる。「神様に感謝」「神様こわい」ただそれだけ。

 こんなの、宗教としては成立しない。(カネにならん!)

 もっとややこしくしないと。で、分かった風な人間が優越感を感じて、その見栄にカネを落とすようにもっていかないと、本当すぎるスピリチュアルや宗教は集客できない。(あくまでも今の人類の成熟度合いでは、ということだが)



 昨今の宗教もスピリチュアルも、格好つけ過ぎている。科学の世界まで絡めてきて、インテリぶっている。じゃあ、そのたいそうな教えで世界が変わりつつあるのか? と言えばやはり相も変わらずである。

 皆、「知識追求欲」が歪んだ意味で旺盛なのである。

 何でもかんでも説明がついて、何でもかんでも「明らかになる」のが良いことだと思っている。その結果、いらないことまで暴き(非二元・ワンネス)、分かりえないはずのそれを時として本当に分かったことにしてウソまでつく。

(真面目で熱心なスピリチュアリストの中には、悪気なくそれをする者が多い)

 科学の世界が進歩してきたことで、ひとつ分かったことがある。



●人間の側に、おそれが減ってきた。



 一般には、「恐れ(怖れ)」というほうの言葉を使うだろう。

「畏れ」とは、単にホラーを見てキャアと怖がる恐れのことを言うのではない。

 人間の理解を超えた、何か大いなるものや偉大な何かに対する、尊敬や信頼も含めた「おそれ」のことを、「畏れ」と表記する。神様一般に対してのおそれは、この字を当てる。

 江戸時代に、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という俳句があった。恐ろしいと思っていたものも、正体を知ると何でもなくなるということのたとえ。

 人間は、科学の力で色々な自然現象の正体を暴いてきた。その結果、たいがいのものが怖くなくなった。雷や台風なども含めて。

 今人間が怖いのは自然というより、人の(他人の)心くらいだろうか。

 闇も、昔の人ほど怖くなくなった。人間は地上での主人の証しとして、真夜中でも明るくできる世界を作り上げた。幽霊やお化けなども、本気で怖がる対象というより映画やマンガで怖がったりする、娯楽としての「恐れ」を楽しむだけである。



 その結果、本当に大切な「畏れ」までも削ぎ落してしまった。

 科学の力で、あらゆる事象への科学的説明が可能になり、理解できることで「安心」を手に入れた人類は、傲慢になった。素朴な自然崇拝が大事にするような「そんなことをしたら神サマが怒るヨ」という部分を失ったのである。

 風の谷のナウシカ、で言うと風を読んだり自然を大切にする「風の谷の人々」と、自国の権勢と利益のためなら、世界を滅ぼした「巨神兵」でさえ甦らせて利用しようとするトルメキア軍との違いのようなものだ。今ではお名前を聞かないが、「すべて科学で説明できます」という大槻教授のような人も出てきてしまう。



 筆者が思うに、宗教は教義を整え過ぎた。(笑)

 スピリチュアルも、全部とは言わないが「専門化しすぎた。真理真理言い過ぎた。そのための説明を増やしすぎた」 。もひとつ言うと、「一般人には難解な特殊な業界用語を作りすぎた」。

 知識が増えると、反比例して減っていくのが恐れである。知は、恐れを駆逐する。

 だが、恐れがなくなることがすべて良いケースとは言えない。

 何事もバランスである。動植物も人間も共にこの大地で生きていくなら、ある程度の大自然への「畏れ」は必要である。そこまで克服してはいけない。そういうのが「手を出すべきでない領域に手を出す」ということなのである。己の分限を離れ出過ぎる、ということ。

 遺伝子操作とかクローン人間を作っていいのか、というのがそれに当たる。



 人間は、確かにある意味では神である。

 でも、この地球という演技の舞台で神になってはいけないと思う。人間という有限な在り方にふさわしい振る舞いと精神性を持っていれば、この世界ではそれでいい。いや、それこそがいい。

「スピリチュアルというもの、目に見えない世界を一言だけで言い表すとしたら、なんと言いますか?」と聞かれたなら、筆者は迷わず『分からないもの』と答える。

 何と言っていいのかが分からないのではないよ。



●「分からない」ということが、この世界の本質なのである。



 自他があり、何かの情報を基準としてモノを考えることができる人間からして、である。本当のところなんて、誰も分からない。

 もしかしたら、釈迦やキリストでさえ、それを本当には分かっていないかもしれない。誰も、分からない。

 その、分からないままでいいのだということに、分かるの大好きな人間は気付けない。そっとしておける節度と我慢がない。

 何でもかんでも明るみに出そうとする。でもそれは、実は弱さでもある。

 弱いから、何でもハッキリさせて安心したい。現代人よりも、自然崇拝をしているような人々のほうが、実はその内面は豊かで強い。

 なぜなら、四の五の難しいことは言わず「畏れる」ことができるから。何事も節度をもって自然界に対峙する知恵を持っているから。

 分からないことを分からなくていいままにしておける、現代人にない勇気を持っているから。もう一度言うが、目に見えない世界に対して「敬意を払う」「自然の摂理に逆らうかもしれないことを恐れる」このふたつができるだけで、何かのスピリチュアルを大金はたいて熱心に極めようとしている大半の人間よりも本質が「分かっている」と筆者は思う。ごめんやけど!

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