軸の喪失

 今現在はどうかよく知らないが、『ポケモンGO』というゲームが大変人気となり、話題に大きく取り上げられた時期があった。

 マニアックで複雑なゲームほど燃える筆者は、ちなみにまったく関心がない。

 でも、耳にする話だけでも聞いていると、非常に危機感を覚える。 

 その昔、外国のニュースで「日曜の朝に放映されているドラゴンボールとセーラームーンのせいで、子どもたちが朝教会に行かなくなった」と嘆く記事があった。

 しかし今回は逆で、アメリカなどではその教会に多数ポケモンが配置されており、皆教会に行くようになった、という話である。まさか、確信犯?

「よかったよかった」と言うが、ほんまにそうかいな?

 そんなことで教会に来させてもしょうがない。問題の根本をはき違えている。

 家族の関係が深まったとか。運動しない息子が外へ出て、運動不足が解消されたとか。そういう「よかった」の声も聞くが、逆の情報も多い。

 ポケモンが、ちょっと「問題のある」場所に配置されていたりする場合。

 原発の敷地内に、ポケモン捕まえるために侵入したとか。神社仏閣などの重要文化財の敷地に、許可もなく侵入するとか。

 ポケモンGO関連の事故やトラブルのほうが、むしろその素晴らしさを伝える情報よりも目立ってしまった感じがある。



 筆者は、そういう現代人の抱える心理的問題点を「軸の喪失」と呼ぶ。

 先ほどの話で言うと、常識的に勝手に入っちゃいけない場所、というのがある。

 それは、もしポケモンのことがなければその人は、その場所に入りたいとはまず思わないだろう。しかし、ポケモンがその常識的優先順位を狂わせるのである。入っちゃいけない場所、という認識の拘束力が緩むのである。

 そして、それを乗り越えさせる。それを分かりやすくは「衝動」という。

 最近、その「衝動」に任せて動く人が異様に増えてきた。

 もちろん、それを言ってしまえば筆者の発信活動もある意味「衝動」である。だから、なんでもかんでも悪いわけではなく、その向かう方向性が問題なのである。

 会社で地位ある立場の人間の痴漢行為で、すべてを棒に振るというのもその極まったものである。完全に、優先順位をまともに認識する冷静さが、衝動に乗っ取られた状態。



 筆者はスピリチュアルTVというサイトで番組をもっている。

 普段は午前中の時間枠担当なのだが、ある時たまたま夜の番組の担当を引き受けた。ところが私は「その前日」こそが担当日だと勘違いしていた。

 突発的な家庭の事情で、生放送時間に間に合わないという状況に陥った。後ほど、慌てて「急用で番組ブッチしてごめんなさい!」と謝罪メッセージを発信した。でも、その後に番組カレンダーを見て、違和感を感じ気付いた。

 一日ズレて認識していたことにようやく気付いた。ここ何日か何曜日か大して気にしない生活が続いていたもので! 放送は実は明日だったのだ!

 ともかく、慌て者で恥ずかしかったがまぁ、翌日無事放送で来たのでよかった。

 この場合、私は一時的に「今日が何日の何曜日か」という軸を喪失していたのである。軸がないので、正確な日付を誤解できた。

 今回のことは、まだ恥をかくだけで済んだが、ポケモンのために入っちゃいけない場所に入って迷惑をかけたり、頭でやっちゃいけないことは分かっているのに犯罪を犯す、というのはこの「軸を喪失する」バージョンの重症なものである。



 一般人でも、日常生活でこれの「軽症なもの」はよくやる。

 たとえ軽症でもやるということは、皆常に「大きいものに手を出しかねない予備軍」でもある。他人事ではなく、決して油断できない。

 もちろん、次の事実も同時に押さえておかないと大変なことになる。



●その「軸」とは、どんなに立派な人物がもつものであっても、絶対に宇宙の真理などではない。



 宗教やスピリチュアルがよく使う手は、宇宙には「絶対的な軸」があるとするもの。その軸は、真理や愛というような言葉でだいたい表現される。あるいは聖典に書かれている内容である。

 だから、それからズレると苦しみを生じる。そして、その軸を学び教えることができるのは、この宗教(スピリチュアル)なんですよ~なんて言って人を誘う。

 宗教人もスピリチュアリストも、宇宙の最初から決まっている「絶対的なルール」というものがあることにするのがどうも好きらしい。そして、それをつかめているという優越感も好きらしい。

 その人たちからしたら、悪いニュースに登場するような人や、日々悩みや苦しみが尽きないような人を見たら「ああ軸がズレていることが分かってらっしゃらないのね。一日も早くこのこと(自分がつかんだ軸)に気付きますように」と思い、憐れむのだろう。

 まるで下界を見て心を痛める、蜘蛛の糸のお釈迦様のようである。

 でもお釈迦様の言う「慈悲」とは、自分より下級の者や目覚めていない者たちを見て「可哀想」と思うような程度の感情のことを言ったのではないよ。

 絶対的な軸があると言いきるのは、「裁き」である。

 だからこう在りなさい、というアドバイスは確かによいものであるが、そうでない者を「今のあなたではダメ」だという裏返しのメッセージになっているのである。



 一体誰が他人を、「軸にちゃんと生きてない」と判定できるのか。

 感動的な映画やドラマでも、「愛に生きているのにもかかわらず、現実的な結果として報われない」というケースだってある。それを単純な因果で「苦しみが生じるのはあなたが愛に生きていない(その軸からズレている)証拠です」 と言えるだろうか? この世界は、個人が意識的にどんな在り方をしようが、起きることは起きてしまう世界である。

 昔のニュースで、障がい者の施設で多数が命を失う事件があったが、そのような苦しみや悲劇のうちに亡くなってしまうのは、殺された障がい者本人に因果の種(原因・問題)があったからか?



 私たちは、地球ルールを独自に作り上げたのだ。

 私たちが安逸に真理とか愛とか生命の絶対軸とか呼んでいるものは、後天的に作られたローカルルールなのだ。絶対なものじゃなく、星(文化)によりその種族の考え方により、常に変化する可能性をはらんでいるものだ。

 もちろん、だからといって価値がないわけではない。他者を大事にする。人のものは盗まない。人の嫌がることはしない——。

 それらは大事だが、宇宙の絶対ではない。

 決まっているから従うんではない。決まっていなくとも自ら望んでそのように在りたいと願えることが、知的生命体の素晴らしい所であり、特権だからだ。最初から決まっている絶対に従うだけ、お手本テキストに習ってズレを直すだけ、ならこの宇宙ゲームに大した深みはない。



●どんな世界をクリエイトし、どんな自分で在りたいか。

 どんなルールの中で、どう自分を生かして生きたいか。



 それを考えて作っていく楽しみがあるから、この世ゲームがあるんじゃないのか。

 絶対があるなら、すでの宇宙の真理や愛とやらは「それを見出し従うちゃんとした者」と、「エゴにまみれ大事なものが見えにくくなっている残念な者」がいる、というのが絶対の判定になってしまう。

 だってそうでしょ? 軸が「絶対」なんだから。その物差しを使ってする評価も、絶対になる。どこからどう見ても価値がなく、くだらない命が存在するという理屈になる。



 筆者が言いたいのは、軸云々を語って人を説得するスピリチュアルが悪いというよりも「人なら誰でも、他者評価はともかくその人なりに一生懸命生きているんだけどなぁ」ということ。

 確かに、他者に迷惑をかける見逃しにできないひどい人もいるが、それだって分かりにくいが元は「愛」である。愛の、かなり何重にも歪み変形したバージョンである。一般には単なる精神異常に捉えられるが、本人の中では大真面目である。

 もちろんだからゆるされるという話ではないが、ただ宗教やスピリチュアルの側に「犯罪をゆるすとかそういうことは別問題として、すべての者がその人が置かれた場所で精一杯生きようとしている観点は忘れちゃいませんか?」と問いたい。

 ともすれば、「軸」を分かっていると思っている側が、ただ問題を起こす人を「分かってない人」「残念な人」という冷ややかな視点でだけでしか見てないことってあるんじゃないか?

 それこそ実は灯台下暗しで、軸を失っているんじゃないか?



 愛を語る側が、結局その軸を定義してしまうことで今のあなたはズレている、つまり「愛じゃない」と指摘している笑い話。

 結局、愛の基準を示すことが裁きになることがある。

 もちろん、そういうことを一切言わないでは世の中が収拾つかなくなる。だから、筆者からの提案をひとつ。



●人に在り方やスピリチュアル的思想を説くなら、全部個別にだけやらない?

 いっそのこと不特定多数への「真理」発信禁止!

 でないと、一般論として格言や出版物や不特定多数への発信にしてしまうと、捉える人によっては裁きと感、逆効果である。

 不特定多数に言う側は、個人の細かい事情まで感知し得ないから、影響力のある人ほどそれに比例して救われない者を製造する。



 発信する人によっては、「そういうお前さんできてるのかい?」と突っ込まれてしまうよ。だからよほどでないと、軽々しく発信しない方がいい。

 軸の喪失とは、症状の軽いものなら筆者にも起きるほど身近な問題。それは、一生懸命その人なりに生きていても起きること。

 それを、「あなたは軸がズレている」「それは愛じゃない」では、可哀想になるケースもある。指導者は言いっ放しでいいが、聞いた方には一言言い返したいこともあるだろうに。

 ポケモンに熱中して問題を起こす人も、そのことだけ取り上げたら「迷惑な人」である。でも、その人を良く知れば、色々見えなかったものが見えてくる。

 迷惑行為をまったくゆるすわけではないが、その命の見方だけでも変わってくる。

 松本潤主演の 『99.9 刑事専門弁護士』という人気ドラマがある。その中で松潤演じる弁護士は、クライアントとの接見の時に、本題から切りださない。



●ご出身は、どこですか?



 一見、まったく関係ない質問なので、ついてきた同僚はあきれる。

 しかし、相手の人生を知ることこそ、実は遠回りだが問題にいきなり斬り込むより大事。

 皆に「軸を失っていませんか?」と指摘するのもよいが、なぜ軸を失う流れになったのか、を聞いてあげないと(時間や機会がなくても、せめて「何かある」と考えてあげないと)ただ相手をムッとさせて終わることもあるということだ。

 それは、非常にもったいなく、残念なことだから。

 そもそも、大勢に「これが真理」として語るスピリチュアルの存在こそが、問題の種なのかも。

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