スピリチュアル指導者は皆さんの尊敬や感動の対象ではありません

 アメリカにステラ・ヤングという有名人がいる。

 この女性は、肩書はこそ「コメディアン」であり「ジャーナリスト」であったりするのだが、一目見たら分かるが車椅子に乗る 「障がい者」である。



 この方が、興味深い発言をしている。



●私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく。



 彼女の幼少時のエピソードであるが。

 言い方はアレだが、見た目的にも「いかにも」な障がい者である彼女は、ある時その地区の頑張った「功労者」として彼女を表彰したい、との申し出が行政からあったという。その時の、母親の返答が痛快である。



●ありがたい申し出ですが、皆さんは大変な思い違いをしています。

 うちの子は、皆さんと同じように普通に生きているだけで、何ら特別なことをしていません。うちの子に、表彰していただく業績なんて特にありません。



 そう言って辞退したそうだ。それはステラさん自身もそう思った、という。

 ここに、一般的に浸透してしまった「障がいというものに対する歪んだ見方」が何かが、見え隠れしていると思うのだ。ステラさんの、こんな的を得た指摘もある。



●障がい者は人として扱ってもらえません。感動を与えるための存在です。

 事実 私がこの会場に座って……こんな感じで車椅子に乗って話していたら、皆さんが私にそれとなく期待しているのは 「感動」ですよね? それでも負けないで生きている、希望をもってハンデを乗り越えて生きている、という美談を期待してますよね? 



 実際にステラさんがどこかの学校を訪問した際、「体育館にみんな集めて、頑張れとか負けるなって話でもしないの?」と生徒に聞かれたそう。

 彼女が一番力説するのは、「障がいがあっても生きている → 偉い」の間違いである。障がいを「明らかに良くないこと」「ハンデ」と見るから、そのマイナスを他人より余分に背負ってなおそれでも立派に生きている、ということころで「一般ピープルより偉い」という発想になるのだろう。

 ステラさんが言うには、「自分は別に普通に生きているだけなんで、偉くも何ともない」のだそうである。



 結局、元気のない健常者がやる気を出すためのダシにされている、というのである。手のない人が、口でペンをくわえて絵を描いている。私には手も足もあるというのに……そうだよね、あきらめたら負け、なんだよね!

 そういう風に、自分より恵まれない境遇の者が頑張っている姿に感動させることが目的なのだ。そしてそれは、イヤな話であるがお金の絡んだ「ビジネスチャンス」にもつながっていく。

 要は、そういう風に持って行けば「儲かる人、得をする人」がいるのだ。

 自分が心からそうしたいならまだしも、人から要求されて祭り上げられたり、勝手に感動されたりしても迷惑な話なのである。



 スピリチュアル界もしかり。

 最近私が怖いなと思っているのは、「少ない情報しかないのにも関わらず、その指導者を安易に全面的に信頼、依存する人たち」のことである。

 もちろん、指導者皆がというわけではない。ただ、一部目立って「指導者とついていく側の距離感が異常」なものもある。

 ステラさんが「私を感動の対象にするな」と明言しているのと逆である。むしろ、大きな声では言えないが「感動の対象にさせたい」のである。



 指導者たちは、たまにうまくパフォーマンスをする。

 エックハルト・トールの言う「道路標識をあがめるな、道路標識が指し示すものをこそ見よ」という趣旨の言葉を引用して、メッセンジャー本人を問題にするな、と戒めることがある。

 でも、これは本心からではない。むしろ、誤解してほしい。

 自分はちゃんと言いましたで、という実績作り(予防線)のためである。そして、その状況が「自分のせいではない」ことが示せたら、一石二鳥である。



 たとえをひとつ上げると、あるメッセンジャーが「本当に覚者か」という議論がある。筆者がずるいなぁと思うのは、あえて明言せず濁したような謎めいた(どっちともとれるような)ことを言っておく。すると、好意的に受け止める信者が「この人こそ本物だ」と代弁してくれる。

 すると、「自分ではそんなこと一言も言ったことはありません」と、いざという時には言える。いや、沈黙は肯定だろ!

 一番都合のいいのは、周りが自然にそう言ってくれる状況をつくり、「それは違います。皆さんそれは訂正させてください」などと言わないで確信犯的に放っておくのである。過剰に先生を持ちあげるのを止めないからといって、それは責めにくい微妙なラインである。

 本人はまったく悪いことはしてない。そこが、「頭がいい」というわけだ。

 直接手を下さず、実行犯の下っ端や別人が捕まるという「頭のいい犯人」みたいなもので、自らは立場をはっきりさせず、周囲に言わせあえてそれをとがめたりしないことで、実に望み通りの展開になる。

 皆、勝手にそう思ってくれるからだ。暗黙の了解として。



 まぁ、人気商売だからね。

 皆が勝手に誤解してくれて、優れた人・素晴らしい(総合的、相対的意味で)人だと思っておいてもらうほうが、その誤解を解かない方がいろいろ便利だからね。

 信用してお金も落としてもらえるし。本も売れるし講演会にも人が来るし。

 そりゃ、人間的に「誤解を解かず放っておきたい」ですわな。実際、依存してもらうほうがカネになる。

 贅沢を言えば、毎回ヘンな質問をしてまとわりつく「扱いにくい都合の悪い信者」じゃなく、言うことをウンウン聞き、余計な質問やツッコミをしないわきまえた「信者」こそが理想なのだ。

  


 今回紹介したステラさんのように、徹底してみたらいいと思うんだ。「自分は優れた者ではありません」って。

 自分を感動とか依存の対象にするな、って。もっと大きな声で言う。そうして突き放してみて、それでもあなたを慕ってくるなら、それが本当の関係なんじゃないか。

 有名人としてイメージは大事、それをするのが今後を考えると怖いので壊さない、では……今後の混乱の世界を治め影響を与えるほどの力など、その程度の指導者のスピリチュアリティにはない。

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