付け焼刃で他人のために祈ってもダメ

『自分以外の幸せを願いましょう』



 この言葉は、筆者が住んでいる場所からそう遠くないお寺にある、お賽銭箱の前に掲示されているものである。

 私は、この掲示を読んだ瞬間、背中ゾワワワッとした。

 平たく言えば、違和感を感じたということである。



 ある、スピリチュアル系(心理学系?)の有名人のブログ記事で、「ブータンの人々は、平均1時間半を祈りのために使うそうだ」と書いていた。今の僕らはやるべきことに追われ、忙しさに埋没しがちで、こういう「ただ感謝溢れる」ような時間の過ごし方ってしてないなぁ、とも書かれていた。

 ブログ主が書いているのはそれだけである。でも、その記事を気に入ってSNSでシェアしている人の一言コメントに——



『確かに、他人の幸せを考える(祈る)時間をもつのも、いいですね』



 ……という一文が添えられていた。

 えっと、どこにも「他人のために世界のために祈っている」とは書かれていませんけど?

 きっと、「高尚な祈りとは他人や世界のためのもの」だろうという脳内認識が、勝手に補ったんだろう。筆者は個人的には「祈りは人のためのもの」だと思っている。他人も人だが、自分も人。だから自分のことで祈るのも「人のために祈る」こととなり、何ら問題ない。(笑)

 この時も、私はお寺で「自分以外の幸せを願いましょう」と書かれた掲示を読んだ時と同じ違和感を感じた。なぜなら、本当の意味で「他人(ひいては世界)の幸せを祈る」ということは、「祈ろう」「しよう」と能動的に行うことでは成立しないからだ。



●本物の祈りは、すべて「自然に現れ出でるもの」だからだ。

 結果論なのだ。自然に、流れとして起きる。ただ、湧き出るもの。

 ゆえに「さぁ、今から~のために祈ろう」という思考の着火剤がいちいち必要な祈りは、ムダ。



 恐らくブータンの人は、長い時間の積み重ねと世代交代の間、DNAに染みついたんだな、「祈り」 が。だから、そこにはウソがない。祈らないと、とかああ今日は気が乗らん! というのも比較的少ないだろう。

 人はすべて違うので、同じ文化に生きていてもうまく乗っかっていけないアウトローも一定の比率で存在する。でも、多分少数だ。

 日本はその点、宗教ということでは歴史上おかしな苦労をしてきている独特な国なので、祈りということではブータンに及ばないだろう。恐らく、「さぁ明日から日本人も、世のため人のために1時間は祈ることを習慣としましょう」といきなり全国キャンペーンをやっても、実りはない。

 そういう、単純な問題じゃないんである。



 悟りの視点からは、この世界に醜いものなどない。

 しかし、人間として生きてりゃそう生き切ることもできない。だから、あえて醜いものがあるとすると何か?

 誰かさんの顔? そりゃ、集団エゴの勝手な基準だ。失敗? いや、逆に美しいだろ、それ。

 筆者が、この世界に醜いものなんかない、という身もふたもないことを言わず、あえて何かあると言うとしたら、まずはこれを挙げるであろう。



●しよう、と思ってする感謝

 言いなさい、と言われて口にする感謝の言葉



※上記の「感謝」を「謝罪」と入れ替えても成立



 これには、スピリチュアル本や自己啓発本などに「感謝と100回言いなさい」とか書かれてあることを実践することも含まれる。人の幸せを願う、とか感謝する、とかは「したほうがいいと言われているので、やろう」という意識では、まったく用を成さない。時間の無駄である。

 さっきから私は、「意図してするな」「自然に出るもんだ」ということばかり言っている。じゃあ、自然にそういう祈りの状態に移行するためには、どういう手が打てるのか?

 祈るその瞬間には、勝負がすでについている。

 自我が義務から起こした「祈る気持ち」か、岩清水のように清らかな「祈る気持ち」かはもう決まっていて、その瞬間のあなたの頑張りや取り繕いなど無意味。

 スポーツと一緒で、その瞬間の頑張りよりその時までの「積み重ね」でしょ。

 


 我々が本物の祈る力を身に付けるためには、日常すべてが大事。

 何を受け取り、何を感じ、何を導きだすか。そこから、どういう世界観を生みだすか——。日常磨かず、手入れをしていない武器は、役に立たない。

 だから、「自分以外の幸せを祈りましょう」なんて掲示はまったくのナンセンスなのである。ほっとけ! ということ。

 アンタに言われないと他人の幸せを祈れないような人が、「そうか、頑張ろう」とやっても、ちびっとも世界平和の役に立つことはない。そのような人には、別に個人レベルの願望でもいいじゃんか。身の丈に合っているんだし。

 それとも何か、その神聖な場所で自分の利益になることを願ったら「不謹慎」かい? 聖所が汚れる、ってか?

 その程度で汚せるような無力な聖所なら、要らない。

 ってか、自分のために祈るのはレベルが低くて、公共のことを祈るのがよりいいんだ、という感覚の世界なんて、逆に健全じゃないエネルギーを感じるけどね!

 そういう考えが、一部の指導者の命令に国民全体が従うような、かつての軍国主義のような動きを作っていかないとも限らない。



 あなたがどうしても「頑張ってする祈りじゃなくて、自然に出てくるようになりたいです! 祈りがまさに自分の当たり前な一部であるかのような境地になりたいです!」 と思うなら。

 今から、心の片隅に、冷蔵庫のキムコのように次の言葉を置いておきましょう。

(若い人は知らないか……)



●日常が大事だよ。 

 瞬間の積み重ねが宝だよ。

 そこで、どれだけでっかく世界を見れるか。

 どこまで奥や高さを見渡せるか。

 その結果、あなたは人を、世界を何だと解釈するか。

 何のために、自分は、世界は在ると思うか。

 それを時折思い出したように大事にして、繰り返し生きていたら、いつの日にかあなたは気付くでしょう。

 祈らなくても、あなたの存在そのものが「祈り」になっていることを。



 人から祈れと言われたり、感謝しなさいと人に言われてもそんなあなたには何の助けにもなりません。足の丈夫な人に松葉杖を渡し、「これを使いなさい」と言うようなものです。

 祈りの身についた人は、「あ、1日1時間祈ることにしていたんだっけ。そろそろやっとかなきゃ」なんて思わない。どこかで自然にできている。

 仮にできていない場合があったとしても、それはまぁ「そうなったんだから」と自然なことで流す。間違っても「うう、昨日祈れなかったから今日は昨日しなかった分も合わせて2時間祈って取り戻そう!」とかやらないわけです。(笑)

 ま、生きてること自体がすでに祈りなんですが。

 だから、祈っていることは間違いないんで、あとはただその「方向性と質・深み」の問題。



 本当に祈りのことを深いレベルで分かった者なら、「自分以外の幸せを願いましょう」という言葉は出て来ないと思うんだけどな。指導のための方便だとしても、いいやり方とは思えない。

 いまこの瞬間。あなたの「祈り」の質に関する勝負は決まってしまっている。悔しければ、今から先の日常を、どう自然な感謝の湧き出る自分につなげるかを思い描きなさい。でもね、この旅路はきちんと出発することからして難しいんですよ。

 だってさ、「自然に感謝ができない、やれと言われてやっとするような自分はダメだ」ってところから始めちゃいやすいからね。ダメな部分を努力して何とかしよう、という方向性。

(芸術作品以外の)モノづくりや機械的技術の習得なら、それでいけるかもしれない。しかし、見えない心の内側の「クセ」みたいなものは、欠点改善法はあまり役に立たない。



 自然に他の幸せを祈れていない自分・自然に感謝できていない自分を受け入れる、そこを批判(否定)しない、という最初から難易度の高い関門が待ち受けている。

 それでもあなたに意気込みと情熱があるなら、グッドラック!

 エラそうなこと言ってますが、筆者も20年、勘違いをしてきました。

 理解の中段階程度だと、祈りの効能は「良い仕事をしてくれる、良質なエネルギー」的理解になるでしょう。波動、という概念も絡んでくることがあります。

 まぁ、祈りによって何かを変えよう、という段階です。まぁ、ここまででも普通に生きるには十分なんですが。

 その試行錯誤を経て、ようやく筆者は「私という存在そのものが祈りである」と分かりました。

 何かを変えるもなにも、私自身がすでに全体の中で与えられた役割を演じているという境地なので、その「変えたなら変えることが決まっていた」というちと味気ない話。味気なさと引き換えに、「落ち着き」がご褒美として与えられます。

 その落ち着きは、殴られても蹴られてもまったく怒らず落ち着き払っている、という種類の落ち着きのことではありません。意味が分かる方は自分で悟ってください。



 とにかく、あなたの祈りへの旅路に、幸あれ。

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