それでも世の理に挑む

 その昔、エグザイルの野外公演に出かけた女性が、落雷で死亡する事故があった。そして、それはコンサート主催者側の責任だとして、親がエイベックスに賠償を求める裁判を起こした。

 このニュースは、現代という時代が抱える問題の縮図ともいうべき事件だった。

 まず、この事件に対して見方が分かれるのが、「自己責任」という視点。

 雨と落雷があった時に、この女性は木の下で雨を避けようとした。

 中学レベルの理科の知識があれば、雷の時に木の下に逃げるのは危険、という常識はあるはず、という意見がある。よって、この女性にあまり同情できない、と。

 しかも、これは会場内ではなく外で起きたものである。場外で起きたことまで責任をもたないといけないのか? が難しい点である。



 またこの問題の難しいところは、責任問題に関してどこで線引きを行うか、である。こんなことまで主催者側の責任を認めてしまったら、何でもかんでも苦情がまかりとおってしまい、収拾がつかなくなる、という意見もある。

 このケースを認めてしまったら、今後野外コンサートを主催することはリスクがあり過ぎ、なくなってしまう恐れも極端な話考えられる。リスクを負ってまで誰もやろうとしないだろうから。



 見逃せない点として、主催側も雨水の排水のためか、入場者を主催側の都合で一度会場外に出している。(この点が一部の報道ではなされなかったため、圧倒的に被害者が愚かなように受け止められてしまった)

 また、外でもエグザイルグッズを売る店がズラリと並んでおり、まぁ「会場外なのでまったく関係ないですよ」と言い切ってしまうのも問題あり、という部分もある。その周辺一帯が、エグザイルイベント(つまりその運営の)責任下にあったと見るべきかもしれない。



 もうひとつ、この問題をややこしくしたのが、被害者女性の母親の言動である。

 親としての無念も分かる。裁判を起こす気持ちも、まったく分からなくはない。

 ただ、我が子を失ったという事実が冷静さを失わせ、感情的にさせた部分の事情は汲むべきとはいえ「自己責任」とか「娘がバカ」などの批判的な意見のネット上の書きこみに対して、ちょっと支離滅裂な反撃を行ってしまった点は、非常なマイナスであった。

 よくよく調べたら同情できる点もあるのに、そういう母親の言動が、せっかくできた味方(被害者側の意見にも一理ありとする人)からも反感を買うこととなった。



 主催側は、一切の責任を認めなかった。でも、仮に責任なしとしてもそこで人が一人死んだのだ。それでもコンサートは中止にもならず、何事もなかったかのように最後まで行われた。そういう部分も、また引っかかる部分ではある。

 この事件に関しは、第三者側からどちらが正しい・間違いを判定するのは難しい。結局、最終司法の手にゆだねるしか仕方がないわけだが……

 ちなみに、今回の記事で何が言いたいのかというと、この事件で被害者側の主張はまっとうであるとか、あるいは亡くなった女性の自己責任であり、主催側に非はないのだとか、そういう白黒に関してはここでは何も言わない。



●この世界では、ある事柄が、まったく予測できない影響を他に与え、とんでもない出来事を引き起こすことがある。善意が巡り巡って悲劇を生むことがある。



 エグザイルは、別に人殺しをしようとは思っていない。彼らは彼らなりに、ただ芸能活動を展開しているだけである。もちろん、ファンのために良かれと思って。

 運営側だって、エグザイル本人たちよりは商売っ気が強いというだけで、儲けたいのであって別に客を殺すなどとんでもない。でも、そのことが巡り巡って、一人の女性の命が失われるという悲劇を生んだ。

 言い方は極端だが、「エグザイルがコンサートをしなければ、女性は死ななかった」という側面も否定しきれないのである。でもだからといってそこまで言ってしまったら、この世界では怖くて何もできなくなってしまう。

 人が多い世界。それぞれの事情が違い、複雑に絡み合うこの世界で、すべての可能性に完璧に気を付けるということには、限界がある。



 人類が地球上で生きる意味は、「宇宙のことわり への果てしなき挑戦」 である。

 まったく同じ者など一つとしてない無数の「個」が関わり合う世界。そして、互いの間には限界のあるコミュニケーション手段しかなく、完全には分かり合えない。

 その上、立場や利害関係がまったく異なり、それぞれが自分に良いように動いた結果、どこかでひずみが出、不利益や被害を被る者が思いがけなく出てくる。

 そんな壮大なゲームにいるチェスの駒である私たちひとりひとりは、一体どうしたらよいか? それを学べるのが、ジブリ映画「風の谷のナウシカ」のラストシーン。 


 王蟲オームたちは、幼生の王蟲をさらわれた怒りで暴走する。

 人間は取り返しのつかない愚かな選択をし、勝てるとうぬぼれた人類は今にも彼らに呑み込まれ、自業自得の最期を迎えようとしていた。

 しかし、ナウシカが暴走する王蟲の前に立ちはだかる。

 いったんは、怒りを止められない王蟲に跳ね飛ばされるが、しかしナウシカと最初に心通わせた幼生の王蟲から順番に、やがてすべての王蟲がナウシカを持ち上げる。

 ナウシカは王蟲の力でヒールされ、すべてが丸く収まる。



●ひとつの命を、慈しむ心。

 それが、個人と集団の双方向で発揮されること。



 たとえば、先ほどのエグザイル関連のファン死亡事故のケース。

 人類に「慈しみ」があれば、王蟲のようにできる社会になる。

 皆が、そこに心を寄せる。決して「木の下に逃げるのはバカ」とか「そんなコンサートに出かけるチャラい若者を社会は何とかしろ」とか、「それくらい自己責任だろ、甘えんな」という言い方にはならない。

 企業側も、痛ましい事故に対し、まったく何事もなかったかのように進行させることもない。少しでも、命としての自覚があるなら。

 交通事故の際の勝ち方じゃないんだから、「謝ってしまったら負け」なんて考える社会なら、下の下な社会である。どこが愛の星なもんか。

 もちろん、「自己責任論」なる意見は間違っていないが、その言い方には人の心というものがない。



 もちろん、ナウシカ自身の「真心」がなければ、 王蟲が心を開くことがなかったのもまた事実である。この事件の場合は、亡くなった女性はもうこの世にはいないので何も言えないのだが、その母親はいくら納得がいかなくても、感情を荒げて攻撃的に外の世界を見るべきではなかった。

 もちろん、私も同じ親として、自分がその立場だったら……と考えると、責める気持ちにはならない。ならないが、それでもあえて厳しいことを言うと——


 

●何かを攻撃することによっては、世界もあなたも成熟していかない。



 裁判をするなとか、賠償を求めるな、ただゆるせと言っているのではない。

 ただ、どんなエネルギーを乗せてそうするのか、である。

 命を大切にしたいからこそ、起ったのならそれを受け止め、じゃあ娘の命を意味あるものにできる一番のことは何かを考えるのだ。そういうケースをどうするか考える「被害者の会」をつくるのもひとつ。そういう犠牲者や遺族がでた場合のサポートに力を入れるのもひとつ。

 それによって、誰かのやるせない思いが少しでも軽くなることがその後起きるなら、その女性の命は何かを成し遂げ、形として何かを残すことになる。そこまでしなくても、ただ母が母として、そのことも受け止めて生きていく、前に進むというだけでもいい。



 今回のメッセージのポイントとして、成熟した知的生命の世界とは——



●様々な要素が複雑に絡み合い、誰も望んでいるわけではない悲劇が起きた時。

 何の責任にしてよいか分かりにくい悲劇が起きた時。

 当事者でないその他大勢は、ただその命が失われたことに哀悼の意を表す。

 たとえ直接の責任はないにしても、その悲劇に関わった者は、自分の損得を超えて手を差し伸べる。そして、今後のために何かできることはないかを模索する。

 悲劇の被害者側(遺族・関係者)も、あるい程度失われた命のために泣いたら、その命がどうしたら一番良い形で何かを残せるか、を考える。厳しい理想だが、それができたら何かに攻撃性を向ける事態を避けることができる。

 これこそが、思考力と判断力をもつ生き物が長く歴史を刻み続けるための道。



 今の世界の現状では、人類はまだまだ幼い。

 もっと高度な科学や優れた社会システムがあれば違ってくるのだろうが、人類はまだそれを扱えるまでにはなっていない。もし我々が、命に対してそういう姿勢をお互いに示せるなら、より高度な精神性を持った地球外生物に認められ、一段上の技術と学びを彼らから得られるだろう。また、自分たちの力だけでもある程度のことには対処できるようになろう。



 残念であるが、世界を見渡す限り、このエグザイルのコンサートの話ひとつを取り上げてみても、我々の学びはまだまだである。

 筆者は、ここ20年が勝負と見ている。その間、人類全体としてどういう歩みを選択するのか。いや、ゆっくりしすぎていたら5年以内でも世界は危ない。

 何をきっかけとしてでもいいから、世界全体として「一皮むけない」かぎり、世界は「平和停滞」のループから抜けられないだろう。

 ちなみに平和停滞とは、世界全体として大きな戦争が起こっていなくても、表面が平和なだけで細かくは無数の問題が各国を蝕んでいる、という状況のことである。戦争がないというだけのことで、経済・教育・治安が常に安定しない、明日何が起きるか分からない先の不透明な日々が続く世界である。



 まず、あなたからナウシカ(心開く者・心寄せる者)となろう。そうすれば、王蟲たち(あなた以外の全員)も、あなたを持ち上げて支えてくれる。

 人類全体が心を開き、「金色の野」を歩くできる日が来るように。

 金色の野とは、人間一人ひとりの手の集まりによってできている。昔からある古臭い言葉だが、「一人はみんなのために。みんなは一人のために」である。



 全く違う個がそれぞれの事情で生きる世界は、時折予想しない問題を生む。

 その「問題」から逃げられないのが、この世界の特徴である。

 それを、互いが利己的な苦しみや恨みを乗り越え、傷付いた者も図らずも傷付けてしまった者も私怨や利害を超えて想い合える時、これまでかつて人類が見たこともない変化が起きる。

 それまでに、もうひと仕事頑張ろうではないか、同志たちよ。

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