古いものを現代に甦らせるには

 導入はちとマニアな話になるが、申し訳ない。

 筆者はゲーム好きだが、プレステとか任天堂とか、そういう一般的な家庭TVゲームにさほど興味がない。「PCゲーム」と呼ばれる、パソコンにソフトをインストールしてパソコンでプレイするスタイルのゲームが好きなのだ。

 これだと、映画で言う「映倫」のような機関の検閲がパスになるので、表現規制がほぼないのも、ディープなゲーマーにはうれしいところである。だからアダルトなゲームもPCならではのものである。今は、そっち系はやらないが……



 ふと思い立って、20年ほど前くらいにやっていたゲームをプレイしたくなった。

 しかし、これが実に大変な苦労を強いられた。当時の主流OSは、ウィンドウズXP。ゲームはもちろん、当時のパソコン環境を想定して、それに合うように作られている。

 今のパソコンは最新だから、大は小を兼ねるで古いのなど余裕で使える、ということにはならない。ただインストールしただけでは、エラーがでてゲームが起動すらしないのだ。

 筆者の今回の場合は、インストールそのものからしてできなかった……



 執念を燃やした私は、ネットで検索をかけて、その古いゲームをウィンドウズ10でプレイすることに成功した記事を探し回った。したらば、やはりこの広い日本には私と同じことを考えた人間がいたみたいで、探していた情報は見つかった。

 見つかったはいいが、少々専門的過ぎて……難解だった。

 分からないコンピューター用語をさらに検索をかけて調べ、何度か試行錯誤を繰り返しながら、半日以上をかけてやっと! 大昔のゲームが最新のパソコン上で動かすことができた。

 動いてからも、最近主流の横長モニターの画面比率に合うように表示を再設定するとか、カクついた動きを滑らかにするために別のグラフィックドライバーを導入したりとかで、最後まで苦労のし通しであった。



 私たち人間が好きなのは、「普遍的なもの」である。

 人が求めるのは、時代を越え、場所や人種を越え、どんな時にでも例外なく通用する「真理」であるとか「法則」であるとかいうものである。

 ひとたびそういうものが見出されたなら、確かにラクですよね? すべてに当てはまるのだから、こんなに楽で簡単なことはない。

 では、そういうものが実際あるのか? それは、長い歴史が流れた現代において、燦然と輝きすべての人が認め、世界は生きやすくなっているか?と考えると——



●なっていない。

 それぞれがそれぞれに色々なことを言う。色々な人生観・生き様・スタンスがあり、共感するそれぞれの「群れ」が無数に存在している状況である。

 時にはそれら互いが衝突も起こし、世の中は実に混沌とした状況のままである。

 情報化社会となり、地球の隅々まで情報が分かるようになっても、その混沌は変わらない。いや、ある面では情報化社会になったからこそ、混沌が加速された部分があるとも言える。



 筆者のスタンスでは、どの時代でも、いつ何時でも手軽にそのまま通用する真理などない。残念だが、誰にとっても絶対に普遍共通真理と言えるものはない。

 私が、古いPCゲームを今のPCで復活・再現させるのに膨大な苦労を要したように——



●ある時代で唱えられたメッセージは、その時代を背景として、その場でフィットするように語られている。

 だから、それを時代や場所を超えて聞く時、丸呑みにしたらズレてくる。必ず、修正プログラム(パッチ)を当てないと、あなたの今ここの人生には合わない。

 導入しようとしているソフトによっては、今のあなたのPC環境が動作要件を満たしているかどうかを検証しないと、実にただの「知ったか」になりかねない。



 よく、スピリチュアル指導者のブログのコメ欄で、過去のインド辺りの聖賢の名前を出して、いかにも分かったことを言うような人がいる。そんなに分かっているんだったら、よそのコメ欄でくつろいでなんかいないで、自分で発信しちゃえば? って思ってしまう。

 でも、彼らにはそれができない。相手にされない、とどこかで思っているからだ。

 つまり、「ちゃんとは分かっていない」のである。

 恐らく彼らは、知識だけなら筆者よりも悟りの話に関して、情報が豊富かもしれない。だが、彼らは「自分が現代に生きている」ことを忘れている。

 自分が、その覚者自身ではないこと、この世界には「一期一会」の流動的真理しかないことを忘れている。昔のソフトを、パッチも当てずどういうパソコンを想定して作られたソフトかも考えず、ただインストール(読む・聞く)しただけで、何だか分かった気になっているだけ。

 プログラムが立派に動いている、と思い込んでいる。実は全く動いていない。

 


 すべてのスピリチュアル難民、悟りたいけど悟れない難民へ。

 過去の偉大な覚者の言葉に学ぶのは、悪くない。確かに、聞き慣れないインド人あたりの名前を出せば、何かすごく分かってる感は出せる。

 でも、あなたは何も分かっちゃいない。本当に分かった人は、必要がなければ聖人の名前を引用しない。自分の消化した言葉で話す。 

 何か口を開くと『~はこう言っている』という枕詞が先に来るタイプの人は、ただの説明したがりである。そこを見極められないと、とんでもない人についていくことにもなる。



●過去の賢人の言葉は、知っているだけでは何にもならない。

 今という時代がどういう時代なのか分かっていて。そして「過去」がどんな時代だったのかも勉強すること。

 過去を現代に甦らせ、その教訓を現代において生かそうとするならば、最低それくらいの汗はかくこと。



 スピリチュアル界に群がる皆が皆そうだとは言わないが、ちょっと知ってるだけで「~はかく語りき」を気安く引用するアンポンタンが散見されるので、ちょっと苦言を呈してみた。

 何度も言うが、悟りの世界で「知ったか」はいけないよ。

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