ろくべえまってろよ

 私が子どもの頃読んだ絵本に、『ろくべえまってろよ』という作品がある。

 作家は灰谷健次郎という、教育界ではユニークで、ちょっと異端児的な存在。

 もう故人となられたが、最後まで大人に媚びない、子どもととことん向き合うその姿勢は、彼自身がクセのある人物で問題も少なくなかったことを割り引いても、尊敬に値する。

 彼の残した作品は、若き日の筆者の精神的支柱となった。「兎の眼」「太陽の子」など。今回はその絵本の内容を懐かしく振り返るとともに、要らぬ私の解説など付けてみよう。



●ろくべえが、穴に落ちているのを最初にに見つけたのは、えいじ君です。

「まぬけ」と、かんちゃんが言いました。

 犬のくせに穴に落ちるなんて、実際まぬけです。



 ……容赦ないな。w



●穴は深くて、真っ暗です。

 泣き声で、ろくべえということは分かりますが、姿は見えません。

 みつお君が、うちから懐中電灯を持ってきました。

 照らすと、上を向いて泣いているろくべえが見えました。

「ろくべえ。頑張れ」

 えいじ君が、大きな声でさけびました。

「ワンワン」

 うれしいのか、ろくべえの泣き声は、前より大きくなりました。

「ろくべえ。がんばれ」

 みんな、口々に言いました。

 しかし、頑張れとさけぶだけではどうにもなりません。

 第一、ろくべえは何を頑張ったらいいのでしょう。



 愛とか宇宙とかワンネスとか、ものすごく大枠なことばかり語るスピリチュアル発信者に言いたい。

 愛をさけぶだけでは、どうにもなりません。第一、何を頑張ったらいいのでしょう。それ以前に、何を指して愛と呼ぶのでしょう?



●誰かがロープを付けて、下に降りていけばいいのでしょうが、それは一年生には無理です。

 高学年の子は、まだ学校です。今日は日曜日ではないので、お父さんはいません。

 こまった。こまった。 

 みんなで相談をして、お母さんを引っ張ってきました。

 のぞき込んで、お母さんたちはわいわいがやがや言いました。

「無理よ」

 と、しろう君のお母さんは、言いました。

「そうだわ。男でなくちゃ」

 と、かんちゃんのお母さんも、いいました。

「ケチ」

 と、かんちゃんは、口答えをしました。

「僕が降りていく」

 かんちゃんは、男らしく言いました。

「許しません。そんなこと」

 かんちゃんのお母さんは、怖い顔をして、言いました。

「深い穴の底にはガスがたまっていて、それを吸うと死ぬことだってあるんですよ」

 みんな、顔を見合わせました。 

 どうしよう。早く助けてやらないと、ろくべえが死んでしまう。

 お母さんたちは、やっぱりわいわいがやがや言いながら、帰ってしまいました。

「ケチ」と、かんちゃんが言いました。

「ケチ」えいじ君も言いました。



 これは、何とも埋めがたい溝である。

 子ども視点で単純に見れば、お母さんが悪者っぽい。

 でも、母と子で、人生のその時点で「何が一番大切か」という観点が違い過ぎるのだ。仕方のないことだが、母は「犬<自分<子ども」という順番で、大切なのだ。

 子どもの場合は、思考に奥行きがないので、お母さんが危険な目に遭ってケガをするとか死ぬとかいう次元まで考えて心配することができない。だから、ろくべえを助けに穴に降りない上に、自分が行くと言えば「許しません」と言うお母さんを「ケチ」と評価する。

 ケチなのではない。お母さんはただ、何よりも子どもが大事なのだ。なおかつ、犬よりも子どもが大事なのだ。もし母が助けに行って、万が一ケガでもしたら、家事に支障が出る。イコール、それは直接我が子へ不自由をかけることにもつながる。

 母は一見、危険な目に遭いたくない(犬より自分が大事)というエゴを発揮しているようにも読めてしまうが、実はその奥深くは「子どもの生活を守るために、それに仕える自分自身を守る。自分を守ること=家庭と子どもを守ること」なのである。

 ただし、最後まで子どもに付き合わず帰ってしまう点は、ちょっと弁護できない。



●ろくべえが丸くなってしまったので、みんな心配になってきました。

「ろくべえ」

 呼びかけても、ろくべえはちょっと目を上げるだけです。

「ろくべえ。元気出しイ」

 えいじ君はそう言って、ドングリコロコロの歌を歌いました。

「もっと、景気のええ歌を歌わなあかん」

 かんちゃんは大人のようなことを言って、おもちゃのチャチャチャを歌いだしました。みんなも、歌いました。ろくべえは、やっぱりちょっと目をを上げただけです。 「ろくべえはしゃぼん玉が好きでしょ? しゃぼん玉をふいてあげたら、元気が出るかも……」

 みすずちゃんが、やさしい声で言いました。

 ろくべえはしゃぼん玉を見ると、食べ物と間違えるのか、すぐ飛びつきます。

 みすずちゃんは、それを思いだしたのです。

 みんな、うちへ飛んで帰りました。ストローと石鹸水をも持ってきました。

 それから競争のようにして、しゃぼん玉をふきました。

 だけど、ろくべえはぴくりとも動きません。



 試行錯誤の重要さ。スマートな解決など高望み、というより逆に価値が低い。

 子どもたちは、ドングリコロコロの歌を歌ったり、しゃぼん玉をふいたり。

 救出のための努力としては、ピントがずれている。(もちろん、大人の視点で)

 しかし、そのズレたことであっても、ろくべえを思う気持ちに偽りがないなら、その試行錯誤の果てに「何か」に行き着く。その行き着いた先がどこであろうと、結果が何であろうと、その者の学びは進むことになる。

 方法が正しいことも大事ではあるが、それを考える気持ちの質と強さのほうがもっと大事だ。

 間違っているかもしれない、という心配が行動を躊躇させる場合が大人では多い。

 そういう意味では、ややこしいことを考えず、思ったことをバカバカしいとか思わずすぐに実行できる子どもには、学ぶべきところがある。



●どうしよう。どうしよう。

 みんな、半分泣きそうな顔をしています。

 そこへ、ゴルフのクラブを振りながら、ひまそうな人が通りかかりました。

 かんちゃんは、ろくべえを助けてくれるように頼みました。

「どれどれ」

 その人は、穴をのぞき込んでから言いました。

「犬でよかったなア。人間やったら、えらいこっちゃ」

 助けてくれるのかと思ったのに、その人はそう言っただけで、行ってしまいました。

「あほ」と、かんちゃんが怒鳴りました。

「あほ」えいじ君も怒鳴りました。



 スピリチュアル実践上の重要課題のひとつは、「価値観の相違の溝を埋める」ことである。価値観が違うから、相手の言動に対して「理解できない」「信じられない」という感想が出る。

 異なるそれぞれの認識自体に優劣はなく、認識を変えないままでも罪にはならないが、ただそのままでは永遠に他者は「不可解」なままである。

 だから、なけなしの「想像力」を働かせる。たとえ100%完璧には不可能でも、気持ちだけは寄り添おうと動く。出来得る最善を尽くそう、とする。

 子どもたちには、ろくべえは何より大事である。一方で通りかかったおっさんには「人間だったら大変だが、なんだ犬か」であった。

 この場合のおっさんは、何も悪くはない。悪くはないが、この瞬間の世の「大人代表」として子どもたちに悪いイメージを植え付けたことは、情けないと言わざるを得ない。



●もう誰もあてにできません。みんな、口をきゅっとむすんで、頭が痛くなるほど考えました。

「そや」

 突然、かんちゃんが大声を出しました。

「クッキーを、かごの中に入れて降ろしたら……?」

 なるほどと、みんな思いました。

 クッキーは、ろくべえの恋人(恋犬?)です。ろくべえは喜んで、かごに乗ることでしょう。そこを、釣り上げるというわけです。

 名案。名案。

「けどなア……」

 なんだか、かんちゃんは元気がありません。

「そやなア……」

 みんなもしょげました。ろくべえは雑種ですが、クッキーは『コッカスパニエル』という種類なので、クッキーの飼い主であるみすずちゃんのお母さんは、二匹を会わせたがらないのです。


 

 ………(泣)。犬の世界でも、か!

 でも、ここでようやく「試行錯誤の終着点」が見えてきた。あきらめたら終わり。スラムダンクではないが、そこで試合終了になってしまう。



●「クッキーを連れてくる」

 みすずちゃんは、きっぱりと言いました。

「さあーすが」

 と、かんちゃんが言ったので、みすずちゃんは、ちょっと赤くなりました。

 えいじ君やみつお君たちは、かごとロープを取りに帰りました。

 一年生ですから、かごとロープを結ぶのにとても時間がかかりました。

 でも、やっとできました。クッキーを、かごのなかに入れました。



 そろり、そろり。 

 そろり、そろり。



 ぐらっ。



「あっ」

 もう少しで、落ちそうでした。

 あぶない。あぶない。

 やっと、着きました。

「あれぇ」

 みすずちゃんは、素っ頓狂な声をあげました。

 だって、クッキーはかごからぴょいと飛び出て、ろくべいとじゃれ合ってなんかいるんですもの。

「まぬけ」と、かんちゃんが怒鳴りました。

「ちぇっ」

 と、しろう君も、舌打ちしました。

 どうしよう。二匹とも、帰れません。


 

「あれぇ」

 また、みすずちゃんが声を出しました。

 クッキーがまた、かごの中に入ったのです。

 クッキーを追いかけていたろくべえも、ぴょんと飛び乗りました。

 しめた。そら、今だ。

「わあっ」

 みんな、おおよろこびで、ロープを引きました。



【おしまい】



 物語は、ここで終わっている。

 さて、子どもたちの努力が、あきらめない気持ちが、ろくべえ救出を可能にしたのだろうか? これはいわゆる「引き寄せ」であろうか?

 答えはノーである。



 クッキーの行動を、(人間でもそうだが) 他者は決定できない。

 もちろん、影響を与えることはできる。相手が、できるだけある選択をする確率が高くなるように仕向けることはできる。でも、何がどう絡んで最終結果を生むのかというすべての解析は、人間には不可能である。天のみぞ知る。

 もちろん、子どもは奥行きのある思考・把握が難しい。だから「あきらめないことが成功を生んだ」「みんなが頑張ったから」という原因と結果で教えることは、教育上は自然である。

 究極には引き寄せなどなく、他者や世界を変える力すらない(変えられたと観察され、解釈できる現象は起きるが)と分かるのは、魂の旅が進んだ個だけが知れば十分である。大の大人でも理解できない人がいるそれを、子どもに分かれというのは酷である。少年時代は、もっと夢と希望がある話にたくさん触れてよいのだ。

 


 ろくべえ救出を「絶対に成功させる」ということは、人間側には不可能だった。

 人間側の努力にプラスして、クッキーとろくべえが「どういう行動に出るか」という要素までが協力的でないと、不可能であった。

 乱暴な言葉を使うと、結果論として「たまたま」救出できたというだけであり、子どもたちの力だ、と言ってしまうのは正確ではない。



●あなたの引き寄せの力(意識による信じる力)が、相手の自由意思を超えてそれを選択させた(つまり相手の自由意思をコントロールした)という理解には、筆者は承服できない。



 引き寄せ、というスピリチュアルの分野では、うまくいくほどその辺りの事情を忘れがちで、傲慢になる傾向がある。引き寄せたのは、あなただけの力ではない。他の色々なことがあなたの目的に沿う方向で「たまたま」動いただけである。

 まさに「お蔭様」である。その謙虚さを忘れたら、引き寄せはスピリチュアルという分野ではなくなる。ただの自己満ツールに成り下がる。



 我々が願望実現のためにできることは、できるだけそれが起きる可能性が高まるように外堀を埋めることだけである。人事を尽くすことである。

 その結果がどうなるのかは、地の無数の要素が絡み合って計算式が出されるので、まるで大学の合格発表を待つように、与えられるものを待つしかない。

 その結果がどうでも、あなたがもし人事を尽くしたと思え、失敗という結果でも後悔がないのなら、胸を張っていい。

 あなたは、決して負けたのではない。むしろ、様々な他の要素に助けられて得られたものを、謙虚にかしこまって受け取るのではなく「自分が成功した」とその栄光を全部自分に帰してしまうなら、そっちのほうが「負け」である。

 厳しいことを言うと、そんな成功ならしなかった方がよかったのだ。



●その者は、試合には勝ったもしれないが——

 勝負には負けたのである。



 ろくべえが助かった時の子どもたちの笑顔。

 それは、決して思い通りにならないこの世界で、それでも「祈り」の通りになったことへの感謝と安堵。

 その境地に至れば、決して成功して「ドヤ顔」はできない。自分がやったというのはミジンコほどもなく、ただただ「感謝」があるのみである。

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