ばんざいじっさま

『ばんざいじっさま』という物語がある。

 知らない人も少なからずいると思うので、ちょっと出所を説明しよう。

 筆者世代(現在の50歳代前後)にしか分からないかもしれないが、私が住んでいた大阪府では、小中学校において「にんげん」というタイトルの教科書を使用して、道徳の学習をしていた。

 内容としては、命の大切さやいじめ問題などの一般普遍的題材も扱ったが、主なものは部落差別問題、いわゆる「同和問題」に関するものだった。

 国語の教科書に似ていて様々な物語が収録されているが、内容に独特の「暗さ」と押しつけがましさがあり、子どもたちにはどちらかというと不評。表紙絵も、下手したらホラー映画のパンフレットなんじゃないかと思えてしまうような怖さがあった。

 先生も、この本を一生懸命教えるタイプと、ほとんど無視して使わないタイプに分かれていた。

 あまりにもきつい、笑えない話ばかりなので、子どもたちは罪なく「その痛い話をどうにか笑う材料にして、冗談のネタにしていた」ような思い出がある。



 そんな、「にんげん」という道徳の教科書に載っていたこの物語。教科書への批判は多いが、物語ひとつひとつにまで罪はない。

 リアルタイムで読んだ小3の時にはまったく「???」だったのが、今なら別の見方ができる。関西圏に住んでいた中高年世代しか知らないかもしれないこのお話、一応内容を紹介しよう。



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 第二次大戦中の日本。

 ある村に、名物のじいさんがいた。

 人一倍愛国心が強く、村の若者が徴兵されて戦地へ旅立つ時には、ものすごく張りのある大きな声で「バンザイ」を叫ぶ。その声に、誰もが「励まされる」と評判で、村の皆から「ばんざいじっさま」と呼ばれ、兵隊さんの出発の時には必ず呼ばれたそうな。



 そんなある日のこと。

 物語の中では、差別用語に当たる俗語が使われてたのできれいな言い方をするが、「中国人がこの辺りに潜んでいる」といううわさが流れた。見つけ次第、知らせろということになった。

 当時、戦時下にあって中国や朝鮮の出身者というのは、差別された。何か悪いことが起きたら、彼らのせいだと勝手に言われることも多々あった。

 ある夜のこと。外の物音で目が覚めたばんざいじっさまは、自分の畑にその中国人が隠れているのを見つける。腹が空いていたのだろう。畑の作物を口にしている。

 本来なら、大声を上げて村の皆で捕えるところである。しかし、じっさまはこの時、実に不思議な気持ちになった。

 作物を盗まれていること自体は腹立たしいことなのだが、この中国人の男は、土の中から作物を盗もうと抜いたあとに、じっさまに見つかった瞬間、申し訳なさからか反射的に抜いた作物を土を元に戻す動作をしていた。それを見て、「ああこいつも同じ百姓なんだろうなぁ」なんてことを思うと、親近感さえ湧いてきた。

 そうするとどういうわけか、差別とか相手は日本人より劣るやつらとかいう考えがすーっと消えていった。同じ人間として、同じ命として接する気になった。

 困っている人がいたら助ける。ばんざいじっさまは、人ならば普通にすることをこの男にした。しかし、人として当たり前でも、この時代の事情はそれをゆるしてくれなかった。



 中国人を逃がした疑いで、じいさんは憲兵にぼっこぼこにされる。

 それでもじっさまは、どこへ逃がしたかとか、口を割らなかった。

 心配した村人が、ある朝じっさまの家に行ってのぞいてみると、殴られすぎてすっかり顔が変わり果ててしまったじっさまが、バンザイをしたまま絶命していた。

「ありゃ、じっさまは最後まで『ばんざいじっさま』じゃったわ——」



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 かなり重い話だが、小3でこの話を聞かされるのである。昭和とはなんとおおらかだったのか!(ってかテキトー?)

 筆者は今でも、この物語を思い出すたびに、胸が熱くなる。

 つい先日、本書でも「自分が損を被っても、自分の心の命ずるままを選択する」 という話をした。そのことに通じる話である。



 今の時代で「自己肯定」と言うと、自分が大好きとか、自分ってオッケーとか、なんだかふわっとした、カジュアルでファンシーな雰囲気をまとった話になっている。

 ちょうど、アナ雪の「ありのままの~」 というような話に代表される感じの捉え方。そういう、砂糖のコーティングがかかったドーナツのように甘い「自己肯定」も悪くないが、むしろこのばんざいじっさまの生き様こそ、自己肯定の最たるものと思うのだ。



●他人の評価がどうであっても、時代の常識や大衆心理からズレていても——

 自分が損を被る可能性があっても、それでも自らの内なる声に従う。



 ばんざいじっさまは、「本物の自己肯定」をもっているかどうか、実際に試された。試されてこそ、本物なのか口だけなのかが分かる。

 残念ながら多くの人は、死ぬまで試されるような経験をしない場合が多い。自分は上等な人間、本当の覚悟をもった人間と思いこみながら、死んでいく。

 だから、あえて言う。



●試される者は、幸いである。

 試されて結果がどうでても、そこを踏まえてまた前に進める。

 試されない者も、それはそれで幸いである。ただし、魂の成長はずっとそこにとどまる。

 試される経験。そして試される機会が回避され続け、大きな苦痛が起きないで済むこと。そのどちらがあなたの人生にとって良いものか。真に価値あるものか?

 それを決めるのは、あなたの判断である。

 ただし、無理して自ら進んで大変な目に遭おうとしなくていい。ただ、自然にそれが「来た」 時にだけ、背を向けずに迎え入れればいい。



 また別の視点からこの物語を見ると、ばんざいしたままの死は、戦時中にあって命への視点が狂ってしまっているのにそこに気付けない日本という国への、命がけの抗議のようにも思える。

 見た目には明らかに負けだが、じっさまは見事に勝ったのだ。

 この記事を書いている今、コロナ禍にあって首相をはじめとする政府・与党自民党は国民を舐めて暴政をする有様。筆者の一票は彼らにとって取るに足らないものかもしれない。なんら打撃を与えられないかもしれない。

 でも、筆者がその小さな一票で自らの意思を表明することは、ばんざいじっさまの遺志を継ぐことになると思っている。

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