したいようにする ≠ 自由
故人となられたが、クリスチャン作家で有名な三浦綾子さん。その旦那さんが、
ある、「よく当たる」姓名判断のプロが、その光世さんにこうすすめたのだそうだ。あなたが病気がちで健康を崩しやすいのは、名前のせいだ、と。名前をよい画数のものに変えれば、きっと良くなる、とアドバイスをしたそうだ。
すると、光世さんの返事はこうだった。
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確かに、そういうこともあるのかもしれませんねぇ。
でもね、私はこの名前がいいです。
名前で女性だと勘違いされたことも多々あるので、子どもの頃には名前を嫌った時期もありました。でもねぇ、今は違うんです。
病気をしたことで、出会えた人もいます。もし今その人と出会えてなかったらどうしていただろう、と思うこともあります。神は、文字通りの幸せの中からすべてを学べ、とは言わない。病気の中からでも、どんなことの中からでも神の恵みを見つけ出せるのだから。
それにね、私がもし健康だったら、多分何でもできるかのように傲慢になって、人生で色々大事なものを見逃したかもしれないんです。自分の性格は自分がよく分かってますんで、傲慢な私には病気をしておくくらいがちょうどいいんだと思ってるんですよ。ハッハッ
体が丈夫だったら、私の性格からいうと神を謙虚に求め信仰に至ったかどうか分かりません。その点でも、私は「与えられた、あるがままの私」に満足しているんです。
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上記の言葉は、筆者なりにアレンジした表現をしていることを断っておく。文意は、そう変えていない。
このことから、光世さんの生きる軸は——
●一般的な基準において、得をするということにはない。
普通は、病気よりも健康の方がいい。
確かに名前を変えるということは、その辺に買い物に行く、という気軽さではできないことだ。でも、病気がちな現状というのがあって、それを変えられるとなれば思いきる人は多いだろう。
しかし、光世さんはそれを選択しなかった。
一般基準で「そのほうがいい」とされる道を蹴った。
それは悲惨になりたいとかそういうマゾっ気から来るのではもちろんない。
●他人がどう思うか、人の目から見て損か得かという情報を突きつけられても「自分がどうしたいか」を貫く生き方。
誰にも指図されない、外側の情報によって決断を左右されない生き方。
言い方を変えると、「(自分の本心に)自由に生きる」ということになる。
さて、ここで問題です。この「本心に従って生きる生き方」は、本当に自由な生き方だと言ってしまえるだろうか?
すべてしたいようにする。ただやりたいようにやる——。このことが貫き通せるのなら、この世界に何万冊スピリチュアルや自己啓発の本があっても、用済みになる。それはまことに、経済的である。買わなくて済むのだから!(笑)
このことは、別にスピリチュアルでなくても、一般でも言われることである。
本当にやりたいことだけをやる。やりたくないことはやらない。これを人は「自由だ~」と呼びたいだろう。
でも——
●自由とは、一般的に「自分の好きなことをする・したいようにする」こと、そして「それがゆるされる状態」のことだと言われる。
でも、あなたに「これがしたい」と思わせるものは何か? 角度を変えて考えれば、「それをしたい」という本心の指令に従っているということ。
だとしたら、「それ以外選べない」ということだから、それは「自由」と呼んでいいのか?
あなたは実は、胸の奥のどこかから湧いてくる「どうしてもこうしたい」という指令の奴隷である。
それを選べないことを一般的には「不自由」と呼ぶが、ホンネに従うこともまた別の意味では不自由である。この世界において、本当の自由なんてことを考えても仕方がないのである。
無数の個が相互干渉し合い、脚本のある演劇を組み立てていくこの世界では、真の自由など絵に描いた餅である。
それはおとぎ話にすぎず、すべて指令プログラムである。
たとえばあなたが「今夜はカレーにしよう」と思うとする。
あなたは、当たり前のように「自分でカレーを選択した。自由を行使して選んでいて、誰にも強制されていない」と考えるだろう。だが、ちょっと待て。
あなたは「さぁ、今から私は『今日はカレーにするぞ』と考えるために、そのもとになる思いを創造しよう」なんて思う作業をしてから、「今日はカレーにしよう」という流れで、ちゃんと自分で全部創造してますか?
いや、あなたは一瞬にして「カレーにしよう」と考えたのであり、実は自分で決めてない。さぁ、その一瞬で決まった「カレーにしよう」は、いったいどこからやってきた?
心理学の分野では、それは潜在意識が……という話になるのかもしれない。
それだと、あくまでもカレーにしようと決めたのは自分、だとしておける。だって、潜在意識だって辛うじて「自分」というカテゴリーに属しているから。
しかし、筆者が主張するところでは、カレーにすることはすでに決まっていたことなのである。前回カレーを食したのがいつだったのか、どれくらいのカレー好きなのか、朝ごはんと昼ごはんは何を食べたのか、その日の天気や湿度、etc。今挙げたのはほんの一部だが、億千万単位の『諸事情』がすべて加味されて、カレーにするという結論がはじき出されているのだ。実のところ、そこに個人の自由意志などというものは微塵もないが、皆胸を張って自分で決めたと得意気だ。
すべて、どこかで決まっていることが、指令として思考上にやって来る。それを人は「自分が思ったり考えたりしたこと」として不思議でも何でもないと処理することで、この撮られている映画を今起きているように真剣に味わえるのである。
これまでの記事で何度も断っているように、筆者がそう思うだけで別にみなさんもそう思うべきだなどと思わない。決まっていると思えなければ、このことは無視して全然OKである。
この話は『天の視点・地の視点』で考えるのがいい。
三浦光世さんが、健康のために名前を変えるようにアドバイスをされても断ったのは、地の視点では「自由の行使」。でも、「ホンネの指令に従う以外できない」状態だとも言えるのだから、天の視点から見たら「不自由」である。
結局、どっちに転んでも不自由なので、人間に自由などない。
ただ、こうは言える。
●どうせ不自由しかないのだったら。同じ不自由なら、地の視点での「不自由」よりも天の視点での「不自由」のほうがいい。
そっちなら、同じ不自由でも人間は幸せを感じるようになっている。
なぜなら、ゲーム(映画)の設定上、そっちが望ましいというルール(前提的世界観) が用意され、それに則って「この世体験」をしているからだ。
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