置かれた場所で咲きなさい

孟母三遷もうぼさんせんの教え』というものをご存知だろうか。

 国語で習って知っている方も多いと思うが、どんな話かを以下に記載する。

 ちなみに、孟母とは中国で有名な『孟子もうし』の母である。



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 孟子が幼い頃、彼の家は墓地のすぐ近くにあった。

 そのためいつも、葬式ごっこをして遊んでいた。

 孟子の母は、「ここはあの子が住むにはふさわしくないところだわ」 と考えた。

 そう考えて引っ越すことにした。



 次に移り住んだのは市場の近くだった。

 孟子は、商人のまねをして商売ごっこをして遊んだ。

 孟子の母は言った。「ここも、あの子が住むにはよくないわ」



 再び引っ越して、今度は学校の近くに住んだ。

 孟子は、学生がやっている祭礼の儀式や、礼儀作法の真似事をして遊ぶようになった。

「ここならあの子にぴったりね」

 孟子の母は、ここに腰を落着けることにした。

 やがて孟子は成長すると、六経を学び、後に儒家を代表する人物となった。



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 結局この話は何を伝えたいのかというと、子供は周囲の影響を受けやすいので、子供の教育には 環境を選ぶことが大切である、という教えである。

 でも、私は必ずしもこの教え通りになどしなくてもよい、と思う。

 すべては、ケースバイケースである。無理にこの教えの通りにしようとして、逆に子どもをダメにしてしまう場合がある。



 すごくひねくれたことを言うと、この孟母三遷の教えが広まったのは、これが万事に適用できる真理(法則)だったからではなく「結果オーライ」の面があったからだ。孟子の母がそうした教育方針を実践した結果、孟子が歴史に名を残す立派な人物になったという「実績」が出たからである。そうした実績がなければ、この教えはここまで名を残さなかった。

 子どもだって、色々である。皆、同じ環境で同じ反応を示すことはない。ひとくくりに「子どもは影響を受けやすいから」と何でもかんでも心配するのはどうか。



 子どもは環境の影響を受けやすい、というのは一見親の愛情の表れとして読める。親としての、責任ある配慮だと。

 でも、それは裏返せば「子どもへの信頼のなさ」である場合もある。

 この子は放っておけば、悪いものに染まる。自分で判断する力なんてないんだから、お母さんが守ってあげなきゃ!

 自覚はしてないだろうが、そういう無意識の心配がある。

 筆者も二人の子を持つ親なので、そうした心配をするのも分かるので、頭ごなしに責めることはできない。私だって、よっぽどひどい状況があれば、引っ越しを検討するだろう。

 でも、この孟母三遷の教えで語られている、引っ越しの理由は私からしたら「甘い」。もし私なら、そんなくだらないことで引っ越しなどしない。



 筆者なら、どうするか。

 きっと、子どもを信頼する。

 もちろん、放任主義でいくら「子どもを信頼する」と言っても、それは無責任な言葉になる。

 私なら、たとえば家が孟子のように墓地のそばにあって、子どもが葬式ごっこに熱中したって、それで引っ越しなんてバカな真似はしない。逆に、教育のいい機会だと捉える。

 人が死ぬ、ということについて子どもと考える機会になる。その話が深まれば、子どもだって葬式ごっこばかりするまったくの「愚か者」だというわけではなくなる。

 じゃあ、人が死ぬということがある程度話せたら、次は「お葬式って何だろう」というテーマについて一緒に考えることができる。それがあって初めて、「じゃあ誰々ちゃんがやっている遊びは、本当にいいことなのかな? なんかおかしくないかな?」という核心的な話題に持っていける。

 子どもが、自分で考え自分で結論を導き出せたら、しめたものである。それは、子どもにとっての一生ものの宝になる。その考える力は、今後の人生の武器になる。

 ゆえに、考えようによっては——


 

●孟子は、心配性の母に問題のある環境から逃がされ守られ続け、自分で選択したり、決断したりする力を得る機会を逃され続けた。

 孟子は子どもの頃、自分の力で考える力のない子どもに育ったのではないか?

 それでも彼が有名な思想家になり得たのは、孟子の母のおかげとは別の努力での産物ではないのか?



 ……と、そんな見方もできる。

 市場の近くだって、私はいいんじゃないかと思う。

 商売ごっこをして何が悪い? 孟母は、商人になることを見下しているのだろうか? 息子は、どうしても偉大な「学者様」にしないといけない?

 それこそ、典型的な「自分の夢を子どもに託す(悪く言えば自分ができなかったことを代理で叶えさせて満足したい)ダメ親」 である。どこが立派なものか!

 引っ越しなんかせず、商人の町に住みながらも別で、孟子に「学問の素晴らしさ」を家で教えればいいではないか。

 だから、商人になることの魅力と、純粋な学術の魅力と、両方を差し出せばよい。

 その上でどちらにする? というのは、孟子本人の責任において選べばいいことである。ちゃんと、自分がしていることの意味を理解させた上でなお本人が選ぶものは、尊重してあげるとよい。

 孟子の場合は、母親が我が子が自分がしていることの意味(葬式ごっこ・商人ごっこ)を理解させるという戦いから逃げた。逃げて、環境を変えるという「汗をかかない」インスタントな選択をしたのだ。

 問答無用のリセットだと、子どもの対話はなしでいける。その代償として、双方の成長はない。

 


 今回、筆者が一番言いたいポイントは次のようなところである。



●子どもによくない、と危険回避ばかりするのではなく、時にはそのことから逃げずに「それにはどういう意味があるか」を考えることも大事。

 親が先回りして隠すのではなく、あえてその存在意義を一緒に考えて、それでもそれを選択したいのか? を問うことも大事。

 子どもが自分の責任で選ぶことは、親が問題自体を回避し何も問題が起きないことに勝る。 



 もちろん、陰湿ないじめで子どもが自殺にでも追い込まれかねないケースなどでは、「立ち向かえ」というのも酷だ。映画やマンガでは、理想的に「立ち向かってハッピーエンド」があっても、現実ではそうスマートにいかない。やはり、リセット(引っ越し)があってもいいだろう。

 でもさ、近くが市場とか墓とか……その程度で子どもに悪影響なんて、孟母は何考えている? 商売だって、人間の立派な生き様のひとつだ。我が子が商人になったら、我慢ならない?



 引っ越しだって、お金と労力のかかることである。

 現代では特に、社会の仕組み上膨大なカネと面倒がかかる。

 ……じゃあ、貧乏人は環境を変えるのをあきらめろ、ってか? そこで踏ん張るしかない。「置かれた場所で咲きなさい」しかない。

 いくら大人になって立派な思想家になったとはいえ、孟子だって子どもの頃はフツーに子どもだったはず。筆者も経験があるが、引っ越しが多いとそれだけ親友との別れも辛く、深く長い交友関係が築きにくい。親の都合による安易な引っ越し(地域の人間関係のリセット)は、様々な不便や苦痛を子どもに強いることになる。

 孟母は、環境を変えまくる前に気付くべきだった。

 墓のそばではお墓ごっこ。市場のそばでは市場ごっこ。学校の近くでは、学校ごっこ——ああ、うちの子は真似しばっかりで、オリジナリティーがない! もっと色々な選択肢を知った上で自分で選択する、ということを教えないと!

 そう考えたほうが良かった。学校のそばで学校ごっこで、それが自分の望みにも合致していたから「ああよかった」というのは、あまりにも自分勝手のご都合主義だ。



 もちろん、孟母三遷を否定するわけではなく、ケースによってそれも有効だと認める。あくまでも時に「有効」であるに過ぎず、決して「万能」ではない。ましてや、真理などとは程遠い。

 子どもには、どんな環境であろうと情報を与えることで「自分で考えさせ、選ばせる」ことが必要。

 環境を簡単に変えるのではなく、ひと昔前のベストセラー本のタイトルのように「置かれた場所で咲きなさい」ということを教える方が教育的効果としては高い場合があることを忘れずに。

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