くだらない

 日常、当たり前に使う『くだらない』という言葉。

 意味は説明するまでもないので、語源に関する3つの説を紹介する。



① 「くだる」には、通じるといった意味を示す場合があり、それを「ない」で否定して「意味がない」「筋が通らない」などの意味となり、取るに足らないの意味に転じた、という。



上方かみがたから関東に送られるものを「下りもの」と言い、その中でも清酒は灘や伏見が本場であるため「下り酒」と言われていた。反対に関東の酒は味が落ちるため「下らぬ酒」と呼ばれ、まずい酒の代名詞となり、転じて現在の意味となった。


 

③仏教に「ダラ」という9つの教えがあり、その教えがひとつもない行為を「クダラがない行動」と言ったことから、くだらないに転じた。



④日本に農耕を教えたのは現在の朝鮮に当たる百済の人々で、ありがたさも込めて百済の人々を「頭の良い、優秀な人々」と考えた。で、頭が悪く話の通らない人を「百済ではない人」と呼び、それが略され「くだらない」となった説。



 ひぇぇ、語源ってこれだけ諸説あるん!

 調べた私も、びっくりした。

 私は、④だと教えられたが、教育とはいかにいい加減で、先生によって差があるのかと思った。④が一番ありえないんですって。(笑)

 実は、今挙げたどれも決め手に欠け、どれかひとつに軍配を上げることができないんだそうな。



 私たちが日常で「くだらない」という言葉を口にする時、ふたつの意味合いがあることは自覚されているだろうか。



①この世界の常識や、大勢多数が認めることのできる規格基準で測った上での「くだらない」


②自分個人の都合や価値観、好き嫌いを動機とする「くだらない」



 ②が一番、日常生活でよく使用される。

 例えばここに、映画なら洋画が大好きな人がいるとする。

 で、邦画に関して「ケッ、くだらねぇ」と思っているとする。

 確かに、邦画にはハリウッド映画的なスケールの大きさには欠けるし、地味かもしれない。しかし、邦画には邦画の良さもあり、ファンも多い。

 よって「邦画がくだらない」というのは、万民が認めやすいような「規格」ではない。好きな人もいればキライな人もいるという程度のことで、そこに「正しさ」はない。しかし、世にはそのことをわきまえない人も多く……

 あくまでも自分基準で言ってることを忘れ、あたかも自分基準が世界的に正しいかのように、何かを「くだらない」とこき下ろし、堂々としている人がいる。

 熟練者ではない素人に、高価なナイフを持たせたら危ない。

 愚か者が「くだらない」を下手に使うと、危なっかしい。他を傷付けて終わりで、互いの傷以外何も良いものを生まない。世の中には、特にネットの世界では匿名性をよいことにそれが溢れている。



 ①の意味は、たとえばあなたが役者志望だったとして、劇団のオーディションを受けるとする。そこには審査員がいるが、それは誰でもよいわけではない。その道一筋にやってきて、本当に演技の価値と「本物」が分かる玄人がその席に座るはず。

 その人物が「こいつはダメ」と判断したなら、それは私怨でも意地悪でも好き嫌いでもない。一切の私情を排した、客観的かつ世間にも説得力のある判定になる。

 中島誠之助が焼き物を鑑定しても、それに文句を言う人はいない。彼は誰よりも勉強し、経験を積み、誰もがその鑑定に信頼を置いているのだから。

 彼が鑑定して「くだらない」と言えば、本当にくだらないのだろう。だがこちらの意味で「くだらない」が使われることは、残念ながら一般人の日常では少ない。



 スピリチュアルや自己啓発の教えの中には、「くだらないという言葉を使わないようにしよう」というのがある。言い分としては「何かをくだらないと言うと、あなたもくだらない人物に成り下がる」というもの。

 一理なくはないが、それも一面的な意見に過ぎない。筆者は、「くだらない」という言葉を使っても全然構わないと思う。



●だって、本当にくだらないものというのはあるから。

 そこを誤魔化したり飾ったりしてもしょうがない。



 いい子いい子スピリチュアルや宗教は、平等とか皆価値があり意味がある、というところを強調したがる。学校教育では、運動能力や絵画の出来に評価や順位を付けないということをしたりして「一人ひとりに価値がある」点を強調したいみたいだが、それだってバランスというものがあろう。

 平等やすべてに何らかの価値があるという概念も行き過ぎると、「一流」が生まれにくくなる。それは、仲良くなぁなぁな空気の中からは生まれ得ない。

 できたら、『セッション』という洋画を見てみたらいい。ちょっと極端な映画だが、ここまで厳しくしてやっと一流は生まれる。

 あなたはありのままで大丈夫、とかそんな軽い言葉は吹き飛ぶ世界である。師と弟子の関係の中では、そこには時として「人権」すらない。



「くだらない」という言葉を使うにしても、そこに「責任」を持つべきである。

 くだらない、と言った以上その判定が引き起こす事態を、全部引き受けてもよいという覚悟で、腹を括って言うべきである。世の中に溢れている「くだらない」の言葉が軽く空疎に聞こえるのは、ほとんどの人が自分の言葉に責任を持とうとして言ってないからである。

 無責任にポンポン口から出して、そこに何の責任も感じちゃいないのがネットにあふれる罵詈雑言コメントである。



 この世界が一皮むけて住みよい世界になるとすれば、それは大勢が「くだらない」を①の意味だけで使える日が来ることである。

 この社会は住みにくい。ストレスが溜まるのも分かるし、やるせない思いが皆あることも分かる。でも、そこで負けたらもったいない。あなたは常に、自分の好みや考えに合わないものを、さもそれが正しいことのように批判することで、ストレスを発散させる誘惑にさらされているのである。 

 で、痛み止めのように一時的には溜飲が下がるが、それはまたさらに次の攻撃を生む。終わるところを知らない。



 ①の意味でくだらないが使えるようになるには、少なからず努力と勉強が必要だ。そして経験も要る。

 バランスよく情報を収集したり、色々な角度からの意見に触れたり。ともかく、少しでも公正な目で物事を見れるように、日々世界から吸収すること。

 それなくして批判していたら、文字通り「くだらない人生」になる。

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