真の勝利者

 筆者がまだ、キリスト教を熱心にやっていた時のこと。

 私が所属していた教会の牧師は、非常に情に厚い人だった。その方のことは、賢者テラとして活動している今でなお、思想信条の違いに関係なく尊敬できるほどだ。とにかく、困った人を見ていると放っておけないというタイプの方だった。

 


 人助けは美点だったのだが、少々行き過ぎもあった。

 他の教会が匙を投げた信者、対応に困り果てて腫物扱いされているような、いわゆる問題ある人を積極的に拾ってくる牧師でもあった。そのせいで、教会は時々「危ない人の展覧会」のような状況になることがあった。

 ここが二元性世界の悲しいところなのだが、いくら牧師の愛が素晴らしくても、それをあざ笑うかのように助けられた「問題児」たちは、文字通り問題を起こす。真面目な信者がその被害に遭うこともあった。

 牧師に関して、博愛精神は非の打ち所がないがもうちょっと落ち着いて信仰生活したい人のことも考えてよ、みたいな反感を持たれることも多々あったように思う。



 で、ある時のこと。またまた「問題のある人」が一人拾われてきた。

 その人物に関する私の第一印象は、『ホームレス』だった。

 もちろん、本当にホームレスなのではない。服装もまぁ普通だし、風呂も入ってないわけじゃない。髪の毛もそれほど放置されている感じはない。ただ、彼から受ける何となしの「感じ」 が そんなだった。

 40代後半の方だったと思うが、仕事なしカネなし。やることなすことうまくいかず、身内からも厄介者扱いされて見放され、どこにも行き場がないところを、父親が教会に関係していたツテで、こちらに拾われてきた。

 牧師としては、神の愛を絶対的に信頼していたので、愛を注げば絶対に彼は生まれ変わると信じていた。いかにしてこの人物を変革できるか、と熱心にこの方と向き合った。

 


 牧師の片腕的立場の私は、頼まれて彼と時々聖書の勉強会をすることがあった。

 ただし二人きりというわけではなく、10人ほどでまとまってやる中の一人に彼がいた、という感じだった。

 教会という場所は、何もずっと聖書だけしか学ばないわけではない。教会によって違いはあろうが、大なり小なり世の中のトレンドの影響も受ける。

 牧師が「進んだ考え方の人」だったこともあって、当時注目されてきた「成功哲学」系の教えが、うちの教会の中にも入ってきて、もてはやされた。

 イエスの言葉で、「おおよそあなたの心の内側にあるものが、外に出てくるのだ」 というニュアンスの言葉があるので、「思考は現実化する」「あなたが心で信じ思い描くものが、現実に現れてくる」という内容は、信者にもあまり抵抗なく受け入れられた。スピリチュアルで言うところの「引き寄せ」とだいぶ似ている。

 聖書の勉強会の時間に、あえてそれ系の学びもしたりしていたのだ。



 で、仕事なし収入なし、メシは教会に食わせてもらっているその人物は、あることを実践し始めた。彼は自分のことを『勝利者』『成功者』であると名乗ることにしたのだ。

 朝から晩まで、彼はヒマさえあれば「私は勝利者であり成功者」と唱えた。スピリチュアルの世界で言うところの「アファーメーション」というわけだ。言霊という概念から、普段から口にする言葉が本当になるというアレだ。

 彼は自己紹介を促されれば、「勝利者であり成功者である何々です」と名乗った。事情を知らない外部の人間の目には、奇異に映ったかもしれない。

 他の信者たちも、彼を呼ぶ時に「成功者」とか「勝利者」と呼んだりした。(多少、冗談混じりなノリの部分もあったが)

 もうすでにそれを得ている、という引き寄せ系の知識も使い「常にリッチな自分をイメージし、すでにそうなった気分に浸る」ということを彼なりに実践していたようだ。しかし、結論からいうとその「勝利者」は、私が最後に彼に会ったその時もまだ最初と同じままだった。



 今回筆者がしたい話は、実に当たり前な話である。でも、その当たり前がなかなか難しい。「勝利者」がなぜ本当に勝利者になれなかったか、皆さんはその理由が想像つきますか?



●彼の勘違いは、「それをすれば、成功者になれる」と思った点。

 方法に百パーセントおんぶにだっこになっていて、そのやっていることと自分自身がまったくシンクロしていなかった。



 皆さんは、どうでしょう。別に引き寄せじゃなくてもいいんですが、何かの教えや実践論をあなたがやる時に、そこに「あなたのやる気、情熱、本気度」といったものが、乗っかっていきませんか?

 あるいはコミットという言葉が適切だろうか。車の両輪みたいに、そのメソッドを忠実に行う部分と、そこに自分の体重をちゃんと預ける(やるからには全霊で取り組む)部分と、両方必要なのだ。

「勝利者」に欠けていたのは、「気持ち」である。

 私が彼から受けた印象は、次のようなものである。

「確かにいつもいつも勝利者成功者だと口にし、イメージングもやっていたみたいだけど、何だか親から言われたおつかいみたいだった。親から宿題ちゃんとやれと言われ、しょうがないから従う子どもみたいだった。」



 精神的に幼い人がやりがちな過ち。

 人や本から「~をすると成功する」「成功の秘訣は~することだ」と言われると、本当にロボットのように「それだけをする」。本当に、それだけを!

 野球選手になりたい。素敵な役者になりたい——。そうなるには、とにかく練習である。稽古である。それを誰よりも頑張ることである。

 でも、ただそのメニューだけを、無感情に機械的に淡々とこなしますか? その練習中、あなたの心の中に時々「炎」のような熱いものを確認しませんか? 



●魂の汗をかかないところ、いくら成功法則を実践しても空疎である。



 勝利者は、口先だけアファーメーションをして、あとはぼけっとしていた。

 彼が自分を「勝利者」と言う時、実にスカスカな言葉として聞こえた。

 この例は少々極端だが、皆さんはどうか。スピリチュアルな教えそのものに、頼る比重が多くなってないか?

 その方法論さえやっておれば、何とかなるという甘えはありませんか?



 すべての宗教的教え、スピ的教え、実践論は自転車の補助輪程度のものである。

 補助輪はそれ自体にエンジンが搭載されているわけでもなく、自ら勝手に動かない。自転車をこげない人が、補助輪が付いたと喜んでも、こがなければ自転車は静止したまま。

 勝利者は、補助輪をつけて「それ自体が何とかしてくれる」で終わってしまった。

『待ちぼうけ』という歌のように、うさぎが切株につまづいて転んでくれる偶然を待ち続け、結果としてそれが起きるというムシのいい話にはならなかった。



 私は、1年半ほど教会で彼を見かけたが、ある時から姿を消した。

 詳しくは知らないが、また問題を起こして、居場所がなくなったらしい。

 親元に帰ったのかどうかは知らないが、とにかく遠くへ行ったという。

 結果として、彼を変えようとする試みは、一時的には失敗に終わったわけだ。

 いつか、そのことも何かのプラスに繋がる日が来ることを、祈るばかりである。



 今、「勝利者」はどこでどうしているだろうか?

 元気であればいいが、と思う。

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