疑似科学に騙されないで
脳科学に関するあるネット上の記事を読んだら、とても嫌な気分になった。
ただ後で調べたところ、その内容はちゃんとした脳科学とは違い「疑似科学」であると判明した。どこぞの金儲けビジネスをたくらむ
なんだ脳科学じゃないのか、じゃあいいやでこの件はこれでおしまい! としようかとも思ったが、内容は実に巧みでもっともらしく書かれており、引っ掛かる人も出ないとは限らないので、今回あえてその騙されやすい「疑似科学」の間違いを指摘しようと思う。オフィシャルな脳科学も実にいい迷惑である。
筆者は、本書でも何度も触れている通り「何かが絶対に正しいということはなく、何かが絶対に間違いということもなく、すべては個人の選択の好き好き(ただしあなたの行動によっては他者に迷惑がかかるので、その信心によって引き起こされる事態については責任を問われる)」と言ってる。
だから、脳科学が「科学的に正しい」とすることを鵜呑みにしても、問題はないし、今回問題にする疑似科学的内容を信じたって別にいい。
ただ、究極次元では正誤や善悪はなくても、この幻想世界にはある。なぜなら、そこでは明らかに「一定のルールに従って物事が動いている」から。
そのゲームルールを良く知りプレイすることは、勝利と幸せへの第一歩である。
今から筆者が「今回紹介する考え方がキライな理由」を述べるが、あくまでもそれは絶対に間違っているからではなく、私が大事にしている生き方や認識の流儀に逆行するものなので、個人的に『大大大大ッキライ!』なだけであることを、最初にお断りしておく。
まず、一番キライな点が次の文章。
●私たちが日頃何気なく使っている言葉が、脳と体に大きく影響しています。
例えば、脳は主語を理解できないという性質を持っています。主語が理解できないので、自分が発した言葉全てを自分のこととしてとらえてしまいます。
だから人の悪口を言うと、脳の中では自分が悪口を言われた時と同じ状態になる。
つまり相手の悪口を言うと、自分自身に悪口を言っていると判断し、自分も傷つき気分が悪くなります。人をけなしてばかりいる人は、なぜか自己嫌悪に陥っていくのはそのためです。そして、より人に対して攻撃的になります。
(自分が自分を無意識に攻撃している状態となるわけですから逃げようがありませんね)
皆さんは、「思考」と「感情」を分けて考える傾向がある。
それぞれ、管轄が違う。思考は脳、感情は心(ハート)。
判断や論理的思考などのデータ面では、脳という科学の領域。
きれいだ。好きだ。生きるって素晴らしい。そういう分かりやすい感情面や、もっと掘り下げた深い感情も含め、そっちは目に見えない「精神」担当。かなり抽象的な概念として「魂」という言葉も使う。
筆者は、心が(魂が)主語を理解しない、というならまだ認めることができる。
なぜなら、大元では分離のない一元であって、故郷がそこなので無意識の奥底で分離(自他)がないと認識してしまうのは分かる。
でも、この世界へはそのワンネスが『分離を楽しみに来た』。それが一番大事な目的で、やってきたのだ。自分・そして自分以外の他人や外の世界を分けて楽しむエキスパートになりにきたのだ。
なのに、そのために特別に作らせた道具(脳を含めた人体機能)が、ポンコツ?
この世界を創造(デザイン)した者は、そんなバカではない。
●私とあなた。その自他のドラマを味わうことを目的としたツールが人間の体なのに、そのツール自体が、その目的を果たす上で欠陥があるなど、馬鹿げている。
先ほど紹介した文章は、疑似科学だ。でも心理学という、心の世界に科学を持ち込んだ内容に現代人は慣れ親しんでいるので、さほど疑念を抱くこともなく「へぇそうなんだ(そう言われたらそんなふうにも思えるなぁ)」という感想になってしまう。
とかく皆さんは、科学をちょっと信じすぎ。今言った科学とは、「完全な科学」ではなく現段階で分かっている部分だけを根拠にした「発展途上科学」を指す。
人間のすることだからね。科学の権威筋が一度何かの科学的事実と思われる定義を発表しても、数年後にやっぱり間違ってました~とか。一部例外があったので、それを含め説明できるように修正しました~とか。
科学は絶対だ、という盲信が現代人にはある。占い師や霊能者が何かヘンなことを言っても疑う能力はあるくせに、大学教授や学術関係の団体が何か言ったら、頭から「へぇ~そうなんだ」状態なのが、科学信仰の現代人である。
だいぶ昔、フロンガスなるものがオゾン層を破壊するとかで、大きく問題となったことがあった。当時人々はこれを信じ、フロンガスを出すスプレー缶なんかを悪者扱いしたものだ。でも後に、実は特に害がないことがひっそりと報道されたが、その頃には人々はこの問題を忘れ去り、ひどいとかちゃんと真実性が保証されてから言えなどの声はほとんど上がらなかった。
ゲーム脳、なんて話も科学としては怪しい部類に入る。
科学は、はっきり言って発展途上であり、全幅の信頼を置けるものではない。
ただそうは言っても、明らかな物理、化学の分野(身近で、検証が比較的容易)なら、たとえ発展途上の科学力でもそれなりに応用ができ、生活も便利にできる。
しかし、目に見えにくい部分の科学(精神の世界・脳科学)に関しては、発展途上=そのまま鵜呑みにするのは弊害がある、と注意した方がいい。
先ほどの疑似脳科学では、自己嫌悪に陥る現象を「脳は主語を理解しないので、他人に悪口を言っているのを自分に言っているのと同じなので傷付く」と説明していたが、筆者はこんなバカげた的外れな説明はない、と思う。
●人が自己嫌悪に陥るのは、理由がふたつある。
ひとつは『罪悪感』。もうひとつは『比較判断能力』。
あなたが、人の悪口を言ったとする。
あなたは、生まれてこの方の教育のおかげで「他人は大事にしましょう。思いやりをもちましょう。皆大事な命です」という倫理観を少しは持ち合わせている。
そのおかげで、あなたは頭が冷えたころに「自分の言ったことは良くなかった」と判断するに至る。その時に「ああ、申し訳ない。ごめんね」という感情が生じる。
そうして生まれた感情を、罪悪感と呼ぶ。そしてもうひとつは、「罪」に関係のない比較行為である。
自分より金持ちな他人、自分より美人でイケメンな他人を認識した時に、あなたがこの世界から獲得した「ランキング判定装置」で、比較して自分はダメだ、なんで自分はああではないのか、と自己嫌悪に陥る。
●今、自己嫌悪に人が陥る二つのパターンを挙げたが、いずれもちゃんと「思考」が支えており、自他という明確な区別があるからこそ「比較」が成り立つのだ。
脳が主語を認識できないのであれば、なぜ人にははっきり自他を比較することで深刻に悩むということが起きるのか? 場合によっては、自殺もするほどに。
脳が属している、二元性の人間肉体というツールは、自他を理解するためのもの。
そのためのマシンを、神(この世界の設計者)は主語を理解しないなどというスペックにはつくらない。
むしろ自他を取り違えるのは思考や脳というこちら側ではなく、心や魂という「あちら側」に近い方の影響の方が強い。そちらが「自他を理解しない」というならまだ話は分かる。
この理屈で感動できるのは、あなたが表面的にだけ恵まれた人生だからだ。
犯罪も犯さず巻きこまれもせず、あなたの関係者は皆健在で人生もそう大きく問題がない人。
この理屈は、残虐な殺人者を責めるな、と言っているようなものである。子を殺された親が、犯人をののしることを間違いとするのがこの理屈である。
究極的にそうできたら素晴らしいのかもしれないが、それでは人間味などどこにあるのか。そんな生き方が苦もなくできてしまうような完璧人間なら、人間としてこの世で生きる意味合いがないと思う。もし皆が他人に言うのは自分に言うのと同じ、ということで一切他を否定をしなくなったら、そんな世界は消えてなくなっていいと思う。二元性世界を産んだ意味が消滅し、その目的が達せられなくなるからだ。
筆者は、今回紹介したような考え方に危機感を持っている。
何らかの理屈を持ってきて、人間の健全な感情の出方を制限する行為は、危険だ。
確かに他者への怒りや攻撃の感情を減らしたい、なくしたいという気持ちは大事だ。でも、心の中に不可抗力で生まれてくる感情を押さえつけてまで「模範的な在り方」に当てはめるのは不健全だ。もちろん、最低限の他人への礼儀やエチケットというものはあり、野生動物のように本能(感情)だだもれに生きていいということではない。
しかし、もしも他を責めたくなる気持ちが湧いて来たら、それはそれでいいんじゃないか? もちろん、その気持ちに正しく対処する行為は大事だ。相手の良いところをもっと知ろうとすることで悪感情が変わっていくかもしれないし、攻撃的にではなく話し合いとして相手に正直に伝え、対話を試みるのも手である。
ただ、そういうこともなしに怠け者みたいに最初から 「おお、これは自分に言っているのと同じだからやめとこ」では、気持ちから逃げている。勝負から逃げる卑怯者。仕事を怠ける給料泥棒。
自分に言ってるのと同じという理解で他に悪いことを言わない、というのはダメダメ。めっちゃ幼稚な精神性である。
悪いことは悪い、のだ。あなたが本気で怒るなら、それはそうなんだろう。
その素直な感情の噴出が自分を不幸にするなんて、洗脳もいいところである。
また、この手の考え方をする人が大好きなのが、『タイガーウッズ』の話である。
先ほどの疑似脳科学の記事では、以下のような話も載せていた。
●タイガーウッズは、ココ一番の大勝負の瞬間、対戦相手が上手くいきますように!と祈るそうです。
相手という自分に余計な呪いをかけない! だから自分を妨げる思いが少ないのです。その結果あれだけの成果を出せるのです。
凡人とは逆の思考なのです。
このたとえ話のズルい点は「個人競技を引き合いに出している」ところである。
ゴルフは、自身のプレイと他人のプレイが分離しているタイプのスポーツだ。自分がやっている時に他人は関係ない。他人がやっている時、あなたは見る以外干渉できない。
そんな状況だから、相手がうまくいけ、なんて念じることができるのである。これを、テニスとか卓球でやってみ? 格闘技でやってみ? 瞬間的に、思考してみ?
相手のスマッシュが決まりますように! 相手のハイキックが見事に決まりますように! 願いが叶って、あなたは見事に負けるかもね。
そういう、たった少しのことが試合運びに影響する真剣勝負の世界に、他人がうまくいくようになんてことを考えるメモリー容量の余裕なんてないべ?
この場合、それができやすいゴルフだけを例に挙げて、あたかもスポーツ全般で有効かのように勘違いさせるのが、この手の考え方の卑怯な所である。
脳は主語を理解しないなんて、どこが科学的なんだ!(まぁ疑似科学だったわけだけれど)
あなたは今、脳を使っていないか? 自分と他者くらい、区別がついておろう?
普通に考えたらいいのだ。悪口や攻撃がダメ、という次元より大事なのは「素直な気持ちの発露を大事にする」こと。その出し方や社会常識的調整は、そのあとやったらいい。
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