二匹の龍

 長年に渡り、過激な物言いで世間を騒がせ、賛否両論を巻き起こし続けてきたホリエモン、こと堀江貴文氏。

 ちょいと昔の彼の発言で、『寿司職人が何年も修行するのはバカ』というのがあったが、皆さんは覚えているだろうか。

 飯炊き3年、握り8年と言われるような下積みはバカバカしい。もっとも重要なのは「センス」であり、それがあればもっと短期間で必要なことだけをして、技術習得は可能である、というのがその主旨である。

 長い期間の修行や苦労によって手に入れたものこそ価値がある、というのは偏見であり、寿司職人の修行というのは若手を安月給でこき使うための戯言に過ぎない。そんな内容のことをツィッターでつぶやいて、伝統重視の立場から反発を受けた。



 寿司は日本の伝統食であり、美食の象徴。

 そこで一流を目指すとなると、現在第一線で活躍する巨匠たちの辿ってきた道、つまり『飯炊き3年、握り8年』を実践するのが一番確かな道である、というのが伝統側の主張。

 技術は短期間でモノになるとしても、お客さんへの心遣いやおもてなし、考え方や心持ちなんかは数ヶ月じゃ絶対育たない。ただ寿司が作れる人じゃなく、寿司職人と呼べるようになるには、何のかの言っても年月が必要だ、という意見も。

 表面的な技術を超えた『歴史や文化』など(ちょっと曖昧な概念になるが)は、一朝一夕には身につかない、というのが伝統側の意見。


 

 で、私たちが短絡的にやってしまいそうなのがこのふたつの立場のうち「どっちが正しいか」を論じることである。

 ホリエモンに同意の人もいれば、反発する人もいるだろう。しかし筆者は「第三の立場」を作ってほしいのである。



●異なる二つの意見、対立するふたつの存在は、二匹の龍である。



 その二匹の龍は、互いに絡み合いながらものすごい速さで天に昇っていく。

 その速さのゆえに、本当はそこに二匹いるのに、まるで混じりあって色も体も一匹になったかのように見える。このように、本来はふたつのものが、混じりあってまるでひとつのものに見えるようになるのが、この世界ではとても大事な現象である。



 この寿司問題は、どちらかの意見が勝って終わり、にはならない。

 ホリエモンの発言は、絶大なる『当たり前』に意見しても無駄と感じて、誰も楯突かなかったアンタッチャブルな聖域に踏み込んだことに大いなる意味があった。

 これをきっかけに、今まで独り勝ちだった「寿司業界の常識」に、変化がやってくるはずだ。時代の流れは、一度噴出してしまったこの意見を無視できない。

 でもそれは、ホリエモンの言うことが的を射ていて間違いなくて、ただ伝統寿司業界側が反省して終わり、などという簡単なことではない。ホリエモン自身も、この発言をすることで色々な世の反応を浴びることになったはず。賛成もあれば、チクリと痛い意見もある。

 本人はあんななので(笑)、何を言われても結局は全然動じないパフォーマンスになるのだが、内心では絶対に激しい化学反応が起こっていたはずだ。どんなに鋼のような精神をもつ者であっても、他人の意見に対して「絶対不動」などではいられない。特に、有名人として仕事をしている場合は。

 人間同士は、少しでも関わり合いを持ってしまうと絶対に大なり小なり影響を及ぼし合う。他人の意見(特に批判)を聞いても何も心が動かない、というのはだいたいにおいては当たっているのだろうが、100%と言い張るならそこはウソが混じっているはずだ。



 私が願うのは、この出来事をきっかけに、双方が新しく生まれ変わることである。

 二匹の龍が絡みあい高速で動くことで、二匹であることは変わっていなくても引いた遠くからの視点では「まるで、互いの色が混じりあったまったく新しい第三の龍」になったかのようになることである。

 意見の異なる二つの立場同士が手を取りあって協力したり、友達同士になればそれは一番良いが、もちろんそんなことになるケースは少ない。筆者としては、無理に仲良くする必要はないと考える。

 ただ、やり合った結果、決して「転んでもタダでは起きない」になってほしいのだ。相手とは対立したが、そういう個人的な私怨を越えて「そうは言ってもここに関してはやはり相手に一理あるな」という部分を、スルーせずに肥やしにして生まれ変わってほしい。



 寿司業界側は、ホリエモンにちょっと言われたくらいで簡単に体質を変えはしないはずだ。そんなことで崩れるようなちゃちな伝統なら、当の昔に崩壊している。

 やはり、ある程度の「本質」がそこにあるからこそ、伝統は生き残ってきた。だが、時は流れ、時代も変化する。今が、ちょうどその時だったということだ。

 寿司業界側に、ちょっとした変化を勧める道案内人がやって来たのだ。ホリエモン、という。世界が変化するので、あなたも変化しませんか? という。

 強制ではありませんが、変化しないと色々環境とズレて面倒なことになりますけどよろしい? そんな風に聞かれているのである。

 ホリエモンも、例え正論でもズケズケものを言うことでどんなフィードバックが返ってくるのか、学んでいることだろう。それで彼自身も、自覚はあるかないかはしらないが、どんどん変化していると思う。(え、変わってねぇって?)

 時に、頑固なカリスマが「オレは何を言われようが変わらない。揺らがないし、負けない」などと思っている場合があるが、外目からも明らかに変化し続けているのに本人ばかりが「おれは揺らがない強い人間だ」などと思い込めているのを見ると、滑稽だ。



 筆者も、本書内で色々な意見を述べている。

 言い方がアレなので(笑)、強気で怖くてちょっとケンカ腰、みたいに思われることはある。で、誤解する人は「コイツ、自分は絶対だとか思ってるんだろうな」というふうに勘違いするかもしれない。しかし、私は誰よりも自分の言ってることを絶対だと思っていない。

 すべてのものは、良くも悪くも変化していくものだ、と腹の底から納得している。

 それは、自分も然り。考えも思想信条も、もっと言えば「悟り」だって変化していく。いや、「悟り」は変化しちゃいかんだろ! という人は、勝手に言っておけばいい。(あ、やっぱり頑固?)

 今私は、たとえ違う意見を言われても、自分はこうだから動じないよ、的なニュアンスを匂わせることを言ったが、それでもやっぱり他人様から何か言われたら多少なりとも「影響は受ける」。意見を変えるには至らなくても、それでも細かいところで微妙に変化を起こす。

 そうやって、この世界に存在するものはイモを洗い合うように、互いに力学的に干渉し合い、変化を常に遂げて生きている。その繰り返しが宇宙の営みであり、また人生である。



 話は変わるが、当時松本人志が、前述のホリエモン寿司職人騒動に関して某番組内で意見を述べた。それが、以下の言葉である。



●彼(堀江)の言ってることはその通りで、間違っていない。

 けど、やっぱりなんかモヤモヤするんですよね。たぶんこの人が寿司の皿を一枚も洗ったことがないからだと思う。

 苦労を積んでいる寿司職人の名人と言われる人が全く同じセリフを言ったら、多分誰も文句を言わない。うなづいて「その通りや」って言えるんですけど。

 やっぱり、「人」なのかな……



 よく言われるのが、「宗教やスピリチュアルで、いくら言っていることが立派でも、その発信者がその世界を生きていなかったら、説得力がない」ということ。口ばっかりで、その人が全然そういう生き方ができていないなら意味がない、と。

 確かに、それはごもっともな意見である。

 でも、私が思うに世界中のすべての先生と呼ばれる人物と指導者に、自分で発信したり他人に教えたりしていることを自身でもできていなければ一切発信も指導もまかりならん、というならこの世界は進まなくなる。



●この世界で、口で言ってることを常時その如く体現できている人など存在しない。



 イエス・キリストでさえ自分の言ったことができてなかったのだ。言ってることは全部その人がやれてないといけない、というのは厳しすぎる。

 せめて、次のような基準にしたらどうか。



●言ってる通りの生き方ができていなくても、少なくともそうあろうという「誠実さ」を少しでも相手から感じることができたら、認めてあげなさい。多少の至らなさは、ゆるしてあげなさい。



 ホリエモンは、別に寿司修業など経験しなくてもいいから、一度、洗い場に入らせてもらって皿を洗ったらどうか。(笑)

 発言の鋭い人、抽象化能力が高い人にありがちな欠点は、その卓越したものの見方と引き換えの「言われる方の気持ちへの想像力や配慮の欠如」 である。

 発信者、メッセンジャーとして理想的なのは、常に外部の何かを相手として、二匹の龍としてダンスを踊り、向上変化し続けることを自らに課す者である。

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