プリーズ・テル・ミー・ナウ

 ずいぶん昔の、1980年代頃の話。

 当時中学生だった筆者は、英語力などあまりないくせに洋楽にハマっていた。

 当時好きだったのは、まずは「ワム」。マクセルUD2というカセットテープの宣伝で流れていた「フリーダム」という歌にひと目ぼれならぬ「ひと聴きほれ」したのがきっかけで、人生初の洋楽レコード買いをした。

 その時代はちょうど、マドンナもデビューした頃。TOTOやU2、デビットボウイやプリンス、ブルース・スプリングスティーンなどが思い出深い。マイケル・ジャクソンだけは、なぜか好んで聴く気にはならなかった。



 私はそれほど好きでもなかったのだが、よく音楽の話をする友人に、ミック・ジャガーとデュラン・デュランが好きなヤツがいて、そいつのエピソードなんだが……

 ある日彼は近所のレコード店に、買い物に出かけた。当時CDはあったけどまだあまり普及してなくて、LPとかEPと呼ばれる黒いレコード盤がほとんど。

 中学生のことで、おこずかいも限られている。彼は、お店で悩んだ。ミック・ジャガーのレコードを買うか。それとも、デュラン・デュランのを買うか。どっちも大好き、でも所持金ではどちらかしか買えない。

 選べねぇ~~~~!

 しかし。苦悩する友人を救う神のような存在が、その時現れたらしい。

 おそらく同じ中学生か高校生くらいの知らない女子(制服じゃなく私服だったので推定年齢)が、悩む彼の横をスキップで通り過ぎて行ったらしい。しかも——



 プリーズ・プリーズ・テル・ミーナウ~~ ヒュ~!♪



 そう鼻歌混じりに歌いながら!

 もう天啓と言うか、『神のお告げ』くらいに思ったらしい。

 おっしゃあ!デュラン・デュランのを買うぞお!

 で、彼は迷わずそのようにしたらしい。彼とはその後、その「お告げ」に従って結果良かったのかどうか、という話まではしていない。

 人生、大なり少なりこういう経験は誰しもするものだと思う。

 何らかの現象を見て。天気とか、動物とか、何かの物体の動きとか。それをその人なりに「こういうことを言おうとしているのでは?」と解釈する。それを「ムシの知らせ」「直感」と呼ぶ人もあれば、もろ宗教がかった言い方では『神のお告げ』ということにまでなる。

 ふたつのうち、どちらかを選ぶ時に——



 どちらにしようかな 天の神様の言う通り………



 その後の言葉は地方で色々。筆者の地元では確か最後「かきのたね」で終わったような気がする。

 昔の恋愛映画なんかで出てきそうな、花びらを一枚一枚むしって「愛してる、愛してない」とかやるのもある。子ども心に「そんなもの自分で分からないの? 何でお花に聞くの?」と思ったものである。

 今でも、そう思うけど。(笑)

 


 別にスピリチュアルをやっていなくても、人には大なり小なりその素養はあるらしい。だって、スピリチュアルでやることってだいたい——



●それ自体は何でもない何かに、特別な意味を見出す



 ……これだからね!

 特定の数字に特別な意味を見出す。文字や言葉、そして音。星の運行や配列。

 自然現象にも、「神の怒り」とか「森の精が喜んでいる」とか。

 もちろん、真面目にやっておられる方にしたら、「意味付けなんかじゃない! 本当にそうなんだ。これが真実なんだ」と言うのだろう。でも、ごめんなさい。あなたとその仲間以外は、誰もそんなこと真理だと思ってませんからね! 悪しからず。

 で、それを真理と思おうが思うまいが、どちらとも寿命まで生きそして死に、その間世の中は大きく変わることはない。あなたが死ぬまで、依然として「何が真理か。どの教えやスピリチュアルが正しいか」に関しては決まらないままであろう。



 先ほどの私の友人の話で言えば、彼の横を通り過ぎた女子は、ただ彼女なりの事情とタイミングがあってそこに居合わせ、気分が良かったのかたまたま鼻歌歌ってスキップしてただけ。で、その選曲がなぜか「デュラン・デュランの曲だった」というだけ。一方的な、友人の片思いに過ぎない。

 そこには何の意味もないのに、友人なりの事情があって、彼が「そのように受け取りたかっただけ」。それでいてたまに、そうやって「お告げ」に従った結果、あとで不都合なことが起こりでもしたら……



●お告げが間違っていた

 神様、なんてことしてくれたんだ

 


 自分は悪くない——。

 そんな風に、その時のお告げのせいにする人もいる。自分の決断であることは棚に上げて。

 人とは弱いもので、あまり自分の非を直視することは避けたい。それの度が過ぎると、やり場のない怒りをぶつけるベクトルがただ外側にだけ集中するので、より攻撃的になる。



 日々世の中には無数のニュースが生まれて消えて行くので、だいぶ風化しているが、以前中東のアブない国にひとりで勝手に出かけて、テロ組織につかまりひどい目に遭った人がいた。

 その時、議論を巻き起こしたのが『自己責任』という問題である。その流儀でいくと、あなたの外側の現象に対して、何らかのメッセージだと解釈して受け取るという行為は——



●その人の自己責任である、とわきまえるべきである。



 一度その解釈をしたならば。その解釈の創造主であるあなたは、ちゃんと責任を負おう。でないと、何かうまくいかなくなった時。結果が裏目に出た時。すごく見苦しい言い訳や逃避行動をすることになる。

 スピリチュアルにはまるような人は、一般に比べてスピリチュアルなものを柔軟に受け入れやすいという長所がある一方で、それがうまくいかなかった時の理由を生みだすのもまた名人級である、という短所もある。しかも、うまく自分は悪くないかのようにして!

 お告げを信じてデュラン・デュランのレコードを買い、帰って聴いたら「やっぱり、ミック・ジャガーが良かったかも?」と思ったとしても、たかだか2千円の損である。それくらいならいいが、直感に従ってものすごく高額な出費をする場合や、それを選択することで大きなリスクや責任が生じる、あるいは失敗時の損害がバカにできない場合。


 

●よ~く考えよ~ お金は大事だよ~♪


 

 昔、そんな保険の宣伝があったような?

 一部スピリチュアルでは、その「よく考える」ということ自体を悪く言う者もある。考え過ぎたらダメ、とか素直な心の声に従うの、とか。そういう無責任なスピリチュアル野郎は無視していい。

 確かに、騙されたり詐欺に引っかかったりしたら、悪いのは相手だ。あなたは騙されただけで、非はない。

 厳しい人なら、騙されるあなたも悪いと言ってくるだろう。でも、筆者はそこまで言いたくない。ただ、次のようには言っておこう。

 


●たとえあなたが悪くなくても、何かのせいにしない生き方、ができればオススメ。



 筆者は、日々このカクヨムでの記事を更新している。

 その中身は全部、どこかからやってくるメッセージを翻訳というか、文字打ちしているだけのようなものなので、批判されても「私が言ってるんじゃないんだけどなぁ……」 ということになる。

 自分で考えて自分の意見として言ってるわけじゃないので、内容に関して文句を言われても、困惑してしまう。それでも、私はこう考えることにした。



●確かに、文責は「あちら」にあり、私には内容に責任がない。

 でも、それを翻訳してネットで発表する、ということを『選択』しているのは誰?

 明らかに私だ。私がこんなことをしなければ、メッセージは誰の目にも触れないんだから。ゆえに考えてはいなくても、文字化して発表している時点で、私に責任は生じている——。



 だから、やはり色々あっても受け止めていこう。

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