私がいない、を本当に分かると私はより「いる」ようになる

 5歳の娘が、リトルツインスターズ(通称キキララ)というサンリオキャラのアニメをテレビで見ていた。

 筆者は、執筆活動後の疲れを取ろうと、娘の近くでゴロンと寝ころんだ。見る気はなかったのだが、アニメのある一場面が私の頭の中に飛び込んできた。

 ある女の子と、お月様が会話をしていた。



●女の子: 『あのね、私っていけない子なの』


●お月様: 『自分で「いけない」って言えるってことは、もういけない子なんかじゃないんだよ』



 この会話のエッセンスは、ソクラテスの「無知の知」に通じるものがある。

 ソクラテスは、神様から「お前が一番の知者だ」みたいなことを言われる。そんなことはない、これは神様が間違っているんだと思い、色々な知者を訪ねて話をしてみた。そこで分かったのは、以下のようなことだった。

 知識量や頭の良さなら確かに皆ある。でも、人生において本当に大事なこと(これは知識というより「知恵」と呼ぶほうがよいだろう)に関しては、分かっていない。なのに皆「自分は他人より物事の道理が分かっている」ようなツラがまえをしている。でも私は少なくとも、そのような思いあがりはない。

 とすると、神様の言う私が知者だというのはこういう意味かいな?



●無知 + 無知なのにそのことが自覚できていない = 識者と言われる大勢


 無知 + 少なくともそのことをわきまえてはいる = ソクラテス


 よって、ソクラテスが一番マシ = 皮肉にも一番の知者



【備考】


 私たちが常識として知ってる 「無知の知」。

 教科書なんかでも、いかにもソクラテスの代表的名言と勘違いしそうなくらいに紹介されている。しかし、彼は「無知の知」などと全然言っていない。教科書を書く人が、ソクラテスのエピソードを読んで「これは無知の知、と呼ぶとなかなかしっくりくるではないか!」とでも思ったんだろう。そこから、皆がソクラテスと聞くと「無知の知」と連想するまでになってしまった。

 本当はもっと、軽い感じなんだよ。知りもしないことを知ったかするようなヤツは多いが、少なくともオレはそんなことしないよ~ん、ってソクラテスは言っただけ。

 それを、めっちゃ格好良く装飾しちゃったのが「無知の知」の話なわけ。

 これであなたも、ハナタカ(??)



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 つまりは「あることを自覚できてさえいたら、もうそれはその解決への一歩を踏み出しており、それは状況によってはほぼ問題解決と言っていい状態に近い場合もある」ということ。

「分からない、ということが分かっている」ことこそが「智 への第一歩なように、冒頭のキキララの話だと「自分はいけないことをした」と自覚している子どもは、ある意味悔いている(反省している)のだから、それ以上「いけない子」と責められるべきではない、と。



 非二元の話題でよくある、「私はいない」。「すべては幻想」。

 それらのトピックは、今回の発想でいけば——



●いけない子だと自覚している = すでにいけない子なんかではない

 自分は無知だと分かっている = それは無知なんかではなく「智」に通じている。

 私はいない = いないと自覚できている時点で、もう「わたしはいな」くはない。

 すべては幻想 =そう(マジで)認識できている時点で、もう世界はかっきり幻想ではなくなる。



 非二元は何のためにあるのか?

 それは「私はいない → 何だ本当にはいないのか(楽・あるいは心が軽くなる)」 ではない。これは、ソクラテス以外の知者と同じ愚を犯している。

「この世界は幻想 → なんだ、幻想ならそう深刻にならなくていいか」

「起きることが起きる → 何だ決まってるの? じゃ努力するのアホらしくなってきた」

 こういう感想が出てくるなら、あなたの非二元の学びはまったく無価値である。

 非二元を知ることによる、模範的な(?)効果とは、以下のようなものである。



●あなたという個がもっと、より鮮やかに感じられる。

 この世界がもっとカラフルに、もっと鮮やかに見えてくるようになる。

 より、リアル(現実)を感じられるようになる。

 で、人生がもっと味わい深いものになる。(感じ方には個人差があります)



 そうなのだ。

 非二元を知って、何だか虚しくなった、あるいは悪い意味で「深刻さや責任感が軽減した(どうでもよくなった)」とか、そんな感じが少しでもするなら、それは本当に「非二元を知った・向き合った」とは言えない。

 表面を撫でて、分かった気になっただけだ。本当の「私はいない」は、あなたが自分はいるのだ、とよりビビッドに感じられるためのツールなのだ。「この世が幻想」 も、逆説的だがよりこの世界という映画の「世界観」により入り込んで楽しむための知恵なのだ。

 


 もちろん、「私はいない」「この世は幻想」という非二元に、あえて手を出さなくてもよい。そのような知識がなくて、人生終始ガチで「私は私」「この世界は現実 (リアル)」と思っているほうが話が早い。面倒が要らない。(笑)

 だから、筆者個人としてオススメなのは——



①非二元を知らないでいること。たとえ知ったとしても、それ以上近付かない



②知ってしまった。中身も少々かじってしまった場合。中途半端な探求になる恐れがあるので、キレイサッパリ忘れる



③知ってしまった。かじってしまった。かといって、探求をやめたくない。だから、ちゃんととことん最後の理解まで行く。(非二元を知ってなお、あなたをあなたとして、この世界をこの世界としてより際立って感じられるところまで)



 このどれか、にすることである。

 要は、中途半端が一番あきまへん。

 非二元は、自分が本当にはいない、本当にはこんな世界はないことを頭で分かって現実逃避をするツールではない。より、せっかく生きているこの世界の価値、あなたという「個」の価値を再確認できるツールなのである。本来は。

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