スピリチュアル人口の3割しか知らないこと

 筆者は普段、テレビを見ない。

 もちろん、映画をテレビを使って再生しては見る。私の言いたいのは正確には『放送されているテレビ番組』を見ない、ということだ。

 実家に遊びに行った時にはテレビがついているので、たまたまある番組をじっくり見る機会があった。



●『日本人の3割しか知らないこと・くりぃむしちゅーのハナタカ! 優越館』



 その回はお金に秘められた情報がメインで、触るだけで何円札か分かる見分け方や、500円玉に隠されたもうひとつの「500円」の文字、偽造防止のためにお札に隠されたものすごく小さな文字など……そこで開示されていた情報を筆者はひとつとして知らなかったので、ハナタカどころか「ハナヒク」だった。

 ひとつだけ知っていたのが、「幼稚園と保育園の違い」。私は、幼保両方の資格を持っているので、当たり前の知識ではあった。

 


 確かに、「10円玉2枚あれば、開けにくいお菓子の袋でもすぐ開けられる技」とかは知ればすぐ役に立つのだろう。番組としてのコンセプトは、なかなか面白い。

 面白いから別にいいのだが、あえて次のようにも言える。



●冷静に考えたら、別に知らなくても生きるのに大きく支障のない情報ばかり



 筆者は40代後半にしてはじめて、5千円札を目で見ずに触れるだけで見分ける方法というものを知ったが、それまでの人生で特に困ったことはない。過去を思い出しても、10円玉2枚でお菓子の袋を簡単に開ける方法など知らなかったが「ああ、これをあの時知っていたら!」なんて思えるような困った経験もない。そもそも、お菓子の袋がその時開かなくても、人生の危機などではない。



 発信者の立場で言うのも何だが、スピリチュアルというのもそんな感じな気がする。もちろん、素敵な話もあるし、知ってお得な情報もある。

 でも、そのどれひとつとして——



●あなたが知らないからと言って、宇宙全体俯瞰視点においてあなたが「損」をしている情報などない。逆に、他の人があまり知らずあなたが知っていることで、あなたが人より宇宙俯瞰視点で「優位」に立っている、などということもない。



 確かに、この現実世界においては、明らかな「得」と「損」が存在しているように見える。明確な「幸せ」と「不幸」があり、ひとそれぞれ「明暗」がはっきりしているようにも見える。

 だからみんな、「損」をする枠に入りたくないから、「得」ができるようにそれを与えてくれそうな情報を追おうとする。そのこと自体は、人間の営みとして必須な行為だから、別に問題ない。



 でもまぁ、落ち着け。安心されたし。

 今回の記事で私が言いたいのは、一般人が困った時に覚醒者がかける常套文句である「大丈夫。」という意味の励ましではない。あなたの置かれた深刻な状況が「大丈夫じゃない」ことくらいはちゃんとわきまえている。

 それを「あなたが捉え方によって事態を深刻にしているのです」って言う指導者も多いよな! もちろん、間違っちゃないんだけど「ちゃんと相手の目をまっすぐ見て言える内容?」ってこと。(言えちゃうんだろうな……)TPOを考えたら、それを言えない状況ってのも結構多い。

 誰も皆、真剣に生きている。その中で相手が「深刻だ」と捉えているんだったら、それを「深刻に捉えるからそのようになるのだ」なんて、最初から投げられる言葉じゃないでしょ。

 筆者が今回お伝えしたいポイントは——



●何を知ろうが知らなかろうが、真に必要なものは必ずその「今」に含まれて在る。

 特別に何か知らない世界のものを追いかけなくても、ヒント(突破口)は必ず近くにある。宇宙はあなたが探せないようなところに真の答えを置く、などという懐の狭いマネはしない。

 だから、スピリチュアルという分野も、人間の魂の向上(それすら幻想の遊びだが)における専売特許ではないよ、ということ。どの道からでも、この世界を生きる(ゲーム上の)意味にたどり着ける、ということである。



 スピリチュアルは、どうしてもそれ独特の「特別感」を出したがる。

「ここでだけのお得情報ですよ奥さん! 他ではありませんぜ」を上品に宣伝する。

 でも実は、他でも買える場合が多い。限定セールと言いながら、探せばいつだってどこでだって売っている可能性がある。

 スピリチュアルは、どれひとつとして「それが一番確実な救いや幸福に近い」というものはない。ぶっちゃけすべてが「相性の問題」であると言ってしまってもいいくらいだ。

『ハナタカ』の番組で扱うような知識と同じ。知るとプラスアフファになることもあろうが、あくまでもプラスアルファ(オプション)であって「ベーシック(基本・基盤)」ではない。

 遠い外側を必死に探さなくても、個々人の人生の一番身近にその教材は存在する。

 


『シックス・センス』などで知られるM・ナイト・シャマラン監督の映画で「ヴィジット」という作品がある。今ならアマゾン・プライムで見れると思う。

 この監督の撮る映画はヒットする作品と外す作品のギャップが激しくて、公開当時今回の作品も実は「ハズレ」だとの呼び声が高かった。(笑)

 当時、筆者はこの作品をわざわざ劇場に足を運んでまで観ようか、それともレンタルや配信が解禁されるまで待つか悩んだ。

 私は多少なりともこの作品に興味を持ったので、前評判の悪さがあっても見ようかな、と一瞬思った。で、上映している映画館を確認したところ——



●京都では、ある一か所。

 大阪では、梅田・難波の二か所だけ。



 うぇ~~~~っ! 家からはかなり遠い……

 私の心は、揺れた。見たい思い。でも、わざわざそんな遠出してまで見たいのか?そのふたつがせめぎ合って出した結論が「今回パス! レンタル出たらでもいっか」であった。

 もちろん、気合を入れて行けば、全然無理な話なんかではない。視点によっては「無理じゃないなら、行けばいいやん」と言われるだろう。

 でも、この場合——



●頑張れば行けるのだけど、(何となく)行かないでいいや、という結論に落ち着いた。この「何となく」って、時にはすごく大事なのよね!



 今の場合の「何となく」には、人生シナリオ全体への信頼感と安心感があるのだ。

 今慌てなくても、映画は逃げない。いつかは見れる。仮にそれがDVD化せず、永遠に見れなくなっても、OK。

 それを見ることで得られたであろう感覚や気付きや知識は、他でも十分代用可能。そこが、宇宙のいいところである。「これでしか」がない。

 たとえあるように見えても、それは矮小で近視眼的にしか(損得でしか)ものを見れないエゴの副作用である。まぁ、人のそういうところは責めたり無くそうとしたりするよりも、「仲の悪い兄弟」くらいに思って付き合っていこう。離れて暮らすわけにはいかないのだから、腹を決めて同居しよう。

 


 スピリチュアル人口の3割しか知らない(いや、3割以下だろう)こと。

 それは、、ということ。(特定のものどころか、スピリチュアルという分野そのものを放棄してもOK) その気になれば、何からでも本質にたどり着けるということ。

 ただそういう言い方をすると、本質にたどり着く人、着かない人という勝ち負けや優劣の話にすぐなるのが、この世界の悲しさでもあり、また人間らしさでもある。

 だから、自分に合う合わない、好き嫌い程度の理由でやったりやらなかったりで、全然構わない。人生とは、その瞬間瞬間において、何を知っている知らないを越えて、結構何とかなるものなのだ。

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