結局スピリチュアルって、何を教えてくれるの?
筆者は視力が悪いので、メガネをかけている。
必要な時々しか眼鏡をかけないスタイルの人もいると思うが、私の場合はのび太君みたいにメガネがないと 「メガネ、メガネ」と探し回ることになるので、朝起きてから寝る前まで、お風呂の時以外はずっとメガネをかけて生活している。
はっきり、メガネを酷使している。
今日の朝食中に、メガネについたほこりを拭き取ろうと、かけていたメガネを外そうとした。その時、メガネのフレームの蝶つがいのところのネジがはずれて、耳に引っかける棒の部分が本体から外れてしまった。いきなり取れたので、びっくりしてしまった。
私は、想像した。自分は日々当たり前のように眼鏡を使い、こんなことでも起きなければ今日も明日もあさってもきっと「問題なく使えるのが当たり前」だと思い込んで生きていくのだろう。そして今日フレームがポキッと取れてみて、こう思い至る。
……いやぁ、気付かなかったけどメガネに相当負荷がかかってたんやなぁ。今日いきなりの問題じゃなく、日々の扱いが蓄積してとうとう今日、それが「誰の目にも分かる」現象となって、教えてくれたんだなぁ。逆に言えば、折れるという現象が目に見えて起きない限り、何も問題ないと直前まで思ったままなんだろうなぁ——。
そんなことを思った。
筆者は一応、ある気付きを得た者として、日々ブログを綴っている。
そんな、物の見方(視点)について話しをすることを生業としている立場の私であっても、「日々知らないところで事態は進行しているのに、事が大きくならないとそれに気付けない」ことがある。これは、本当にエラそうなことは言えんぞ、と謙虚な気分になった。(いや、やっぱり言ってるけども)
でもそれはなにも私だけでなく、それに似た現象はスピリチュアル界の
スピリチュアルって、何のためにあるの?
指導者は色々な人に話を聞かせたり関わったりして、お金をいただく。筆者も、(売れっ子に比べれば)微々たるものとはいえ、今のところそれで暮らしている。
何のために、指導者も聞く側も活動している?
スピリチュアル活動する中で、ちゃんとやっているつもりでもトラブルが起きたりすることがある。そんなタイミングで、発信側が一番言っちゃいけない言葉があるが、分かるだろうか?
●本物は、いつの時代も都合の悪いやつに迫害される。
大きくなるほど悪く言うやつが出てくるのは有名税。仕方がない。
これは、指導者自身だけでなく、熱心にそれを支える弟子の立場の人間も口にすべきでない言葉だ。上記の言葉を聞いたら、その人物には最低限の誇りも羞恥心もないものと考える。
ふつうのケンカなら、同じ目線でやりあっていい。
でも、
(相手は一見、目に見えて分かる件について批判してるようで、根っこは全然別の部分にあった場合、その表面的問題の解決自体はさほど意味がない場合があるから)
でも、それでもスピリチュアルリーダーと名乗るのなら。将棋の名人が飛車角を落として相手にぶつからせるような、懐の深い対応が必要である。
伝えなきゃいけない側が、人々の共感と理解を得るべき側が、閉じた世界で——
「それは、その人自身の内面の問題が投影され、露わにされただけである」
「それだけこの内容が本物だということ。あのイエス・キリストだって迫害された」
それを言ってたら、おしまいである。
イエス・キリストの何を知っている? 現代人が、どこまで理解してるというのだ。簡単にイエスにたとえてくれるな。
そんなことを言うかららスピリチュアルは「キモっ!」とか言われる。
私は思う。
スピリチュアルが、幸せになることを教えてくれる分野なら。その指導者が、分かりやすい「幸せな状態」であり続けてほしいよね。
でも、起きている現象として「それ、どう考えても幸せそうに見えない」ことが指導者に起きると、学ぶ方は正直「何だかなぁ」って思うよ。
ある時期には、「皆さんは幸せになれます! 現に私もかつてはこれこれこうでしたが、ワンネスを知った今は、こんなに自由です! 幸せです!」 みたいな発言すると思うの。スピリチュアル指導者って。
見た目にも本当に幸せそう(人気上昇・経済的にも成功、家庭も夫婦関係も幸せそう)だから、皆もその実績に「説得力」みたいなものを感じ、あやかりたいから必死についていく。
頑張ってその人の話を聞くのは、「幸せになる方法」を知りたいから。幸せに見えない人間に言われても、「はぁ?」になる。お前なんかに教えていらないよーだ、になる。
でも、この世界は変化の世界。諸行無常の世界。
その指導者に、たいへんなことでも起きた場合——。
人によっては、急に熱が冷める。
●はぁ。
幸せになる秘訣を説く人でも、こんなことになるんね。
じゃあ、確実に持続する幸せを得る方法なんて、実は存在しないんじゃ?
耳寄りなお得情報なんてない。知らなきゃ損する真理とか、知って誰よりも得するスピリチュアル的真理などない。
結局、その人なりに泥臭く、一生懸命生きるしかない。そんな当たり前のことが分かるのに、高い授業料を支払ったと気付く時が来る。
覚醒者って、もう幸せしか来ない人のことではない。
人生の達人でもない。いや、逆に人間関係の取り方がヘタな人の方が多いっしょ。覚者って。
「幸せとは、最終的に起きることではなく解釈」という話も含めて、誰もが心の中では実は分かっている話。でも、最近の「幸せ100%、願望を本当に実現」みたいなイケイケ何でもオッケーな軽いノリのスピリチュアルが幅を利かせているせいで、夢を見ちゃう人が増えた。
起きることではなく、見方にこそ意味があるのに。
幸せいっぱいを実現している指導者のノロケを見せられたら、なんだか「やっぱり、幸せなこと、素敵なことばかりで人生埋められなくもないんじゃない? ムリと思うからムリなだけで!」 なんて、期待しちゃうじゃない!
案の定、真似してもうまくいかない。それどころか、その指導者自身に色々起きる日が来る。
アイドルにお熱でも、そのアイドルの恋愛や不祥事が発覚したら幻滅するような感じのことが起きる。
いい機会だから、筆者が今の活動をして、少ないとはしてもお金をいただいて活動する訳を整理して、宣言しておこうか。
話を聞く皆さんに、幸せになれる方法を説いてはいない。そんな確実なノウハウはない。人の数だけ、幸せのなりかたも一期一会で千差万別。
電化製品なみに確実な「二年保証」とかできない。だから私が教えるのは——
●たとえ何かが起っても、「生き続けていこう」と思える強さ。
それの大切さに少しでも気付いていただければいい、と思っている。
それすら、成功するかどうかは成り行き任せ、運まかせになる。
もちろん私は責任を持てる範囲で力を尽くすが、他人がその人にできることには限界がある。
この内容ですらそんなに難しいのに、ましてや「他人に、他人のエゴ視点で望ましいことばかり起きるようになる必勝法」など伝わるわけがない。(てか、そんなもんないわい!)
店で買う商品とは違い、誰にとっても同じような満足度にならないのが、スピリチュアルにおける金銭授受を介したやりとり。
最初から宿命的に、問題が起きる構図にはなっている。
その人のせいじゃなくても、解釈として色々に取られる場合もある。いわれなき糾弾をかぶることもある。もちろん、降りかかる火の粉は払わねばならないが、そこには「知恵」が必要である。
その知恵は、悟りとはまたカテゴリーの違う能力を使わねばならないので、覚者に社会的失敗ってのは少なくないのである。
そこ、悟ったら完璧になると思ったらオオマチガイである。スポーツに必要な筋肉と、楽器の演奏や歌唱の時に使う筋肉が違うような感じ。細やかな気遣い、空気を読んでの軽妙な立ち回りは覚者の一番苦手な分野である。
できている人は、たまたまそういう人だったということで、悟りの産物ではない。
そこを誤解すると、嫌な思いを沢山することに……
事務的なことは最低限しっかりして、あとは「一歩下手に出て誠心誠意お迎えすること」。
悪くなくても、頭のひとつやふたつ、広める側ならすぐ下げられるようにしておかないと。
それでも、こちらが下手に出ても礼を尽くしても分からんちんなことを言ってくるなら、仕方がない。遠慮なく反撃していい。
……と言いたいところだけど、やっぱしダメ。
最低限の弁解をしたら、あとは言葉の応酬などせず、粛々と自分の仕事をこなしなさい。その沈黙の姿勢そのものが、返答になる。
もちろん、「幸せ」とは捉え方の問題である。
他人がどう評価しても、当人が捉え方として「それもOK」となる状態を持続できるならなら、あるいはその人物は本当に「幸せであり続けているかもしれない」。
でも、本人がどうかなんて、この人間社会の力学においては関係ない。
平均的な周囲の目に 「これは……さすがにないやろ」となったら、発信者本人がよくても商売的にはアウト。
いやいや、絶対に幸せなことしか起こらなくなる、なんて保証は当然できません。でも、何が起こってもその中で「幸せと感じられる、受け入れられる」という幸せの可能性について教えているんですよ。そう反論する指導者がいたらこう言いたい。
●それならそれと、ボカさず看板に書け。
聞かれたから言う、んではなく最初から広告のメインにその文言を掲げろ。
一般基準で言う「幸せなこと」「良いこと」ばかりが起きるのが、ここ(本書)で言う幸せではないのですよ。そういう視点から言ったら、世の中は苦しいことばかりですよ。(お釈迦様も一切皆苦と言いました。あの人は、信じれば幸せを引き寄せてハッピーになれるから、不可能もないし奇跡も起こせるから、みんなこの世界でノッて行こうよ! なんてことを一切説いていない)
だから、幸せとは究極的には「解釈」ですよ。
苦しい時にでも、解釈を変えることで心の平安を得ることができ、ブレない。揺らがない。あくまで、目指すのはそこですよ——
でも、筆者はその「解釈による、いつでも幸せ」もないと思うようになった。
だって、解釈ですべてをオッケーにできる(しかもそれを成功させ続ける)なんてセリフ、人生で本当の修羅場なんか見たことのない人しか言えないよな、って思う。
子どもが死のうが配偶者が事故死しようが、その瞬時に解釈を変えて「幸せであり続ける」なんてまともじゃない。悟り視点の達人かもしれないが、お前に明日を生きる資格はない。
今すぐ、遠いお
変化の世界に生きているので、同じ苦しみが「ずっと」続くということはない。でも、時間性のある程度は「どう考えても不幸」でしかない時間を過ごすことは避けられない。
後々になってその時のことを振り返った時、解釈が変わっているかもしれない。受け入れることができるようになっているかもしれないし、すごい場合は「感謝すらできるようになっている」かもしれない。
でも、あくまでそれは「未来予想図」。生の、リアルな「今」においては、苦しいのだ。辛いのだ。ゆるせないのだ。
私はそういう状態にいる人を見て、責めることができない。
だから今も今後も、筆者が伝えたいのは真理ではありません。
誰がやっても安定して一定の答えや成果が出ない代物を、真理とか法則とか恥ずかしくて呼べません。
ただ、「私は今日もこうやって生きてるよ~。皆さんはどうかな~?」と日々ブログで問うているだけである。そこで、たまたまご縁があった読者様との間で何らかの価値が生まれれば、程度に思っている。
いただくお金も、真理伝達料でも幸せ波動おすそ分け料でもない。ただ一生懸命話した労働量の対価としていただく。
しゃべるのは私というより「あちら」なので、その長時間の通訳料、とも言える。
それが「高い」と感じられるのであれば、来なくていい。来る人にだけ、好いてもらえればいい。
でも、いらしてくれたからには機嫌は取らないが、全力で接することは約束する。
やっぱり、沢山の人が関わり過ぎると、この分野は歪みだすな!
個人差はあろうが、一クラス30人ほどの人間関係が、覚者には本当の意味で面倒を見れるマックスだろう。
中には、生涯にこれと思った弟子をひとり、ふたり育てるだけの者もいる。1000人単位が聞けば、問題が起こらない方がおかしい。
だから私が本当はもっとオカネが欲しいくせになりふり構わず動かないのは、結局人数が増えてオカネが儲かっても、それはそれで地獄を見ることになるからである。
もちろん、有名人に「仕方ない、で済ます資格はない」 のは言うまでもない。
●指導者よ。おまえは弟子でも生徒側でもないんだ。気骨を見せろ。
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