悟りを積極的に求めないほうがいい理由
【問題】
あなたが、家の近くの公園で落ち葉を一枚拾ったとする。
それを持って、同じような落ち葉が落ちている広い森に出かける。
で、どこかでうっかり、公園で拾った落ち葉を落とす。
さぁ、あなたは広大な無数の落ち葉のある森の中で、確実に公園から持参した落ち葉を見分けることができますか? (公園の落ち葉に蛍光塗料を塗っておいた、とかいうのはなし)
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筆者は、悟りを得る以前には、悟りなど求めていなかった。
スピリチュアルは少しかじっていたが、どちらかと言えば好きなスピリチュアル指導者のセミナーに出る消費者側(ファンとも言える)で、自分もスピリチュアルを偉い先生から学び応用して幸せになれたらいいな、程度の実践者だった。
自分がその先生のようになりたい、なりたくないの話ではなく、そういう発想自体が湧かなかった。なので、それ(覚醒体験)が来て後、予備知識が少なかったので事態の整理に時間を要したが、結果クリアーにそれは「悟り」だと確信した。
例えて言えば、公園から持ってきた落ち葉1枚だけしか存在しないので、他と間違えようがない、という状態に似ている。
しかし、もしこれが「常日頃から悟りを求め、今か今かと期待している人」だったら? 筆者の体験とは違う余計な罠に遭いやすい。
人間の認識システム(五感、自我主観)というものの特徴を端的に言うと「見たいものを見る」であり、「自分の都合のいいように解釈する」癖がある、ということである。そんな中で、あなたが悟りを日々欲しがっていたらどうなる?
最初の数年は、悟れてなくても「まぁ、それくらいはかかるものだろ」と我慢もできる。ある程度は落ち着いて「待つ」ことができても、これが10年・15年となったらだんだんこらえ性がなくなってくる。で、ある日無意識の領域で何をしだすかというと——
●悟りを捏造する。
これは、ある意味責められない話でもある。
強すぎる願望は、そのエネルギーが一定量を超えると幻想を見せる。(そしてその幻想は、本人にはかなりリアルで、まがい物と自分では気付きにくい)
世界を見たいように見る宿命にあるその人は、ある日それをもって「おお、ついに自分にもキター!」となる。めでたく(自称)覚醒者の誕生である。
たいがいは「言動がイタイ」ので、表舞台にはめったに現れることができない。「覚醒しました!」って宣伝して回っても、誰にも相手にされないからだ。
でも、非常にまれにであるが、キャラが立っていて面白い人の場合。多少の常識は欠けていても「面白がられてスターになる可能性もある」。
で、もしもの話。
後でその人に、「本当の悟り」が訪れたとする。
でも、多分だがその人はそれを見逃す。それと分からない。
人によっては信じがたいだろう。「悟り」って、それがきたら明らかにそれと分かるものじゃないんですか?
いや、そうでもない。なぜなら、「悟り」を捉える側が「エゴ主観」しか持ちえない生き物だからだ。
たとえばここに、福山雅治に至近距離で会ったことのない人がいるとして、ある日その人の横を彼がサングラスをしてありふれた普段着で「通り過ぎた」とする。
その人は高確率では福山雅治の顔を知っていても、彼に気付けない。
なぜなら「そんな有名人が、この時間に自分の街のこの道路を歩いているなんて思えない」からだ。認識の前提とは怖いもので、福山なんかいるはずがないと思っていれば、本当に気付けない。あるいは「似てるな~」 とは思うが、結果本人だとは思わない、とか。
だから、一度悟りを捏造していると、心はその価値を守ろうとする。(もちろんその人の自我は、捏造した悟りこそ原点だと信じている)だから、防衛機制としてモノホンの悟りをスルーする。
いるわけがない、と思っていると福山に気付けない場合があるように、もう悟りは来た、という前提でいると見逃すこともある。人はそんな大事なものを見逃すほど、自分の面子を大事にする生き物なのである。
最初の「悟り」を、ウソにするわけにはいかないから。
●いつでも悟りを渇望していたら、一体どの瞬間が生んだ「願望の産物」なのか、はたまた自我に由来しない「悟り」が本当に来たのか、判別しがたい。
毎瞬毎瞬の「悟りたい」という願望の連続が、森の沢山の落ち葉たち。そこへ「たった一枚の公園からの落ち葉」が舞い落ちても、もう見分けがつかない。
悟るには手放すこと・執着を捨てることがひとつの打てる「手」だと言われる。
(もちろんそれを成せたからといって、悟りが保証されるものではない)
それは、悟りを迎えた時に余計な落ち葉がない状況で迎えられるようにだ。
願望がニセモノを引き寄せる可能性を排除できるから、悟りたいというあからさまな願望の排除は悟りに必要な要素だと言われるのだろう。
この記事を読んで反感を持たれる人が少なくないだろうと思う。というのも、「悟りというものは、劣化しない。悟り後に悟りを失ったり、精神的に退化(成長の反対)することなんて絶対ない」と考える人が多いだろうからだ。
その考え方からしたら、筆者の言う「悟ったのに、その悟りを本物と気付かない」なんてことは起こり得ないからだ。それだけ、悟りという基準は絶対的だということだろう。
私も、悟りがものすごいものであることは認める。ただ、悟るのは誰かというと、二元性キャラである『人間』だ。
●その辺のヴァイオリン教室に通っている子どもに、何の予備知識も与えないでストラディバリウスを渡しても、それと気付けないだろう。なぜなら、その子ども力量ではどんな名器を渡されてもその価値を引き出せないし、引き出せないということはそのヴァイオリンの価値にも気付けないということになる。
芸能人格付けチェックで、GAKCTなら当てられるが他の芸能人は数百円の安物のワインを選んでしまったりするようなことだ。牛ステーキを当てろと言われているのに、こともあろうに「豚肉」を選んでしまった俳優もいるくらいだ。
最初の時点でニセモノ体験を悟りと「認定」する程度の器の者に、悟りが分かるわけがない。皆さんは、悟りというのは来た瞬間に「パンパカパーン、おめでとう!」とラッパが鳴るような感じで、絶対にホンモノと分からないはずがないというイメージを持っていらっしゃるようにお見受けする。それは大いなる勘違いで、悟りとはそんな親切丁寧で甘いもんじゃないからね!
余談だが、ある悟りの流派では、マスター(師)の位置にある人間が「あなたは悟ったと認めます」と認定してくれるケースもあると聞く。
私は、この世界ではすべて何でもありだと思っているので、他人の悟りを認める世界があってもいいかとは思う。それでも、自分では決めれなくて権威ある他人にお墨付きをもらわないと悟ったと思えないなんて、私としては何だかな~と思う。
個人的には、他人に悟りを決められるというのはキライである。それくらい本人に決めさせてあげなよ!
ただその分、その人にはそれなりの「責任」というものが生じる。
悟りを求める方は、くれぐれもリスクを承知の上で求められたし。
責任あるご判断と振舞いをお願いいたします。
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