非二元注意報!

 今はどうか知らないが、なぜか非二元(ノン・デュアリティ)が世間でブームになったことがあった。もちろん一流ミュージシャンや人気アイドルが騒がれるような流行に比べたらはるかに地味ではあったが、それでも不特定多数に広まったというのはすごいと同時に、筆者などは理解に苦しむ現象である。

 私はいわゆる「いちおう非二元の話を伝える側」になっているのだと思うが、それでもあの時のような非二元ブームの人気加減は危なっかしいと感じている。案の定、不特定多数のにわかスピリチュアルファンが「私はいない」「この世界は夢であり幻想」などのようなぶっとんだ話を耳にしてしまい、安易な捉え間違いが多く起こったことも事実だ。

 その混乱の様を考えると、筆者がいくら「皆好き勝手にすれば良い」というポリシーだとしても、多少のお節介を焼きたくもなる。

 私が危惧するだけでも、次にあげる二点の大きな危険がある。



①私はいない。すべては夢であり、本当の現実ではない


 →そうか! この大っ嫌いな私も本当はいなくて、この大っ嫌いな現実も本当にはないんだ! あ~よかったウソで!



②すべては決まっている。起きることが起きる


 →なんだぁ、決まってるんならつまらないなぁ。

  自分の意志では何も変えられないらしいから、寝てようかなぁ。

(決まっているなら自発的努力に意味がないという連想から、なら楽だから何もしないで寝て暮らそうかという極論になる)



 ①に関して。少々厳しいが、この使い方はオススメできない。はっきり、やめたほうがいい。

 人によっては、ものすごく苦しい現実に直面している人が「あなたは存在せず、その深刻な現実さえ一時の夢だ」と聞くことで多少気持ちが軽くなるかもしれない。救われた気分になるかもしれない。

 でも、それは依存性の強い麻薬のようなものになる。非二元を学んだからといって、目の前の現実が魔法のように消えてくれるわけではない。

 解釈を変えりゃいいと言ったって、現実が変わらないなら解釈の工夫も限界のあるものになる。例えば、自分の子どもが事故か殺人か何か理不尽な事情で亡くなった時、解釈の工夫次第でノーダメージになれますか? 少なくとも私なら、どう考え方をいじくったところで立ち直るまで時間の要るダメージを受けると思う。



 ゴミをフタのついたゴミ箱に捨ててフタをする。そうすると、見た目にはゴミは自分の視界からきれいに消えるが、フタの向こう側にゴミはしっかりと存在する。

 ゆえにあなたが抱える問題は、応急処置的に一時回避できても、いつかは向き合わないといけない。その「いつか」を、ヤク(スピリチュアル)で現実を忘れていつまでも先延ばしにしたら、どうなる?

 あなたが、どこかで踏ん切りを付けれる強さを持っている人ならいい。でも、そんな強い人ばかりでもない。とんでもないことになるまで、現実から「逃げ」続ける人も出てくる。



 パソコンで、計算機能だけ使うようなものだ。

 本当は、もっと色々なことができる。ソフトを導入すれば、多岐にわたる複雑な仕事もできる。ゲームも、作曲も建築の設計図も描くことができる。

 でも、その人は「パソコンで計算できる」ということしか知らず、それしか使えない。こういう状態を「もったいない」と言う。

 その程度なら、数万するパソコンなんて高いものを買わずに、計算機だけでいいのだ。安ければ数百円で買える。

 非二元の話を聞いて得たのが「本当にはいないのだと考えたら楽になった感」だけなら、その人は「非二元使いこなせていないチャンピオン」である。もったいないとは、まさにこのこと。

 しかも唯一得たそれだって、完全に非二元を誤って捉えている。はっきり、それはあなたの真の助けにはならない。

 刹那な快楽は一瞬にして終わり、それはあなたを何ら救わないのと同じ。非二元の誤った解釈による「気が楽になる感」は、できたら頼らない方がいい。

 非二元で「私はいない」というフレーズで心が解放される世界があっても、あなたは結局「非」ではないこの二元に生きるしかない、ということを忘れてはいけない。



●あなたはいない、ではない。あなたはいる。

 世界は幻想ではない。触れることができ、現に起きている「現実」である。



 幻想だったら、刑法も気にせず好きに振る舞ってみるといいさ。

 あなたは間違いなく、快適に生きる権利を奪われ、楽しくない展開が今後待っているはずだ。

 私はいない。あなたもいない——。これは、ある段階の気付きにいないと、ただの言葉遊びになる。



 ②に関して、「すべて起きることは決まっている」と聞いて、「つまらない」「じゃあ、意志を使って何かしようと頑張っても、仕方ないってことですか」という感想になる人には、この教えは「早い」と思っていい。身のたけに合ってない証拠だから、忘れたほうがいい。

 すべてが決まっている、というのは『天』の視点。

 スーパーマリオのゲームで言えば、画面の外でコントローラーを握っている人間視点。その人物が、マリオのすべての動きを決めている。

 しかし、我々はいわばマリオ自身。画面の中で、画素の集まりとして「マリオのように見えている映像」である。そこが非二元で「私は(本来)いない」と言われるゆえんである。

 ただしそのゲームワールド内で、マリオはしっかり「自分はいる」と認識しており、自分がジャンプしていると思っている。自分の意志で走っていると思っている。自分が「ピーチ姫を救わねば!」思っている。

 それが『地の視点』。それでいいのである。いや、「それこそがいい」のである。

『地』の視点では、未来は決まっていないのである。あなたが「決める」のである。

 そういう、天の視点と地の視点を器用に分けて把握できる状態になってこそ、「私はいない」を知ってそれが得になる素地ができる。



 だから筆者なども、「すべては決まっている」とは思いながらも、やっぱり日々今を一生懸命、できる限り頑張って生きている。選択をして生きている。自分が頑張ることで何かが成せる(現実を動かせる・未来を変えられる)という勢いで動いている。人はそれを矛盾と言うかもしれないが、そこは「器用ですね」と褒めてほしいところである。

 天の視点と地の視点を行き来できる者。それこそが、ノン・デュアリティの使い手である。その時じゃない者が聞いても、混乱するだけである。



 起きることが起きる、宇宙シナリオは実は決まっている——。

 これらの言葉を浅く捉え、自分の失敗や怠慢の隠れ蓑にするべきでない。

 ある成長段階においては、因果(こうするからこうなる)で捉えたほうが適切なこともある。「起きることが決まっているなんて、つまらない」となる人は、まさに因果律で生きる方が成長できる。

 やはり、ギリギリまで最善を尽くし、できるだけ望ましい結果になるように行動できる者でありたい。だから私は、「起きることは決まっている」と口で言いながらも、日々全力を尽くすのである。

(まぁその全力が決まっていた、と言ってしまえば笑える真実なのだが)

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