大切なものに気付くには

いたむ人』という日本映画がある。

 天童荒太という作家の原作で、「重い話」を書かせたら達人な作家さんである。

 不幸な事故・事件で亡くなった人のことを調べ、その死んだと思われる場所へ行き、「供養」というのとは違う「悼む」ということをして全国を旅している、変わり者の青年を主人公とした物語である。

 かなりきつい話な上に、そういう境遇を通過して「実感としてどういうことか分かる」人もそう多くないと思うので、万民受けしにくい映画だと思う。10人見たら、6人はついていけなくて途中で置き去りにされるだろう。そういうこともあってか、興行的にはヒット作というにはほど遠い。



 映画の主人公がする「悼む」とは——

 その人物が生前誰に愛されていたか、誰を愛していたか、どんなことで感謝されていたかを調べた上で、亡くなられた場所でそのことを死者と分かち合う。

「私は、あなたがそう生きたことを、生きている限り胸に刻んでおきます」

 その際、どんな殺人犯でも悪い噂のある人でも「悪いことには絶対に触れない」という主人公なりのルールがある。どんなケースでも、頑張っていい話を探す。



 さて。主人公(名を静人という)が、ある少年を悼みに、廃校へとやってきた。

 そこの校庭の大きな木に登って、誤って落ちて亡くなった少年がいたのだ。

 静人が、彼独特の「お祈り」のような行為をしていると、声をかけてくる者があった。

「……あなた、こんなところで何をしてるんですか」

 献花を持って立っていたその女性は、亡くなった少年の母親だった。



 静人から事情を聞いた母親は、自宅に彼を招いた。そこには、父親もいた。

 二人から静人は、ある事実を聞かされる。

 木から落ちた、というのは表向きな話で、実はいじめが原因で死んだのが真相だと。

 自殺ではなく、手加減を誤った暴力によって死に至ってしまった、と。

 亡くなった子には、障がいがあった。そこが、目を付けられた一因だろう。



 運の悪いことに、いじめのリーダー格の子の親は地元の有力者であり、警察関係者でもあった。すべてが影の力で強引に、うやむやにされていった。ニュースでも障がいのあった子の痛ましい、運の悪い事故として報道されてしまった。

 被害児の両親には、なすすべがない。それが悔しくてならない。日々、納得できない思いとゆるせない思いを抱えて生きている。

「どうか、あなたもうちの子を死に追いやった生徒を一緒に恨んでください。ゆるせないと言ってください。一緒に戦ってください」

 感極まってそう懇願する母親に、静人は静かに説明する。



●僕は、その相手様を恨むことも、間違っていると怒る気にはなれません。

 僕のしている「悼む」は、あくまでもその人物が生きた価値を死者と分かち合うことです。

 どんな人を愛し、どんな人に愛され、感謝されたか。僕が関心があるのは、そこだけなんです。

 もしその死が理不尽だということで、その犯人や世間を恨んだら、息子さんがどんなにいい子だったか、そのことを思い出す時間が奪われてしまいませんか? 減ってしまいませんか?」



 再び旅立っていく静人を送りだした後で、父親が母親にしみじみ言う場面がある。



●そう言えばさ最近、あの子のこと全然思い出してなかったって気付かされたよ……



 どうしても仕方がないことだとは思うが、子の命を理不尽に奪われた親は、どうしてもゆるせない思いの方がエネルギー的に勝ってしまい、死んだ子との楽しかった思い出や美しい記憶の方が、遠のいてしまう。

 二元世界エンジョイツールとしての人間の、スペック上のハンデは、刺激の強いものに触れてしまったら、他へのフォーカス能力が封じられてしまうという部分。

 強いエネルギーに対しては回線をひとつしか開けない、という認識力の限界。



 先ほどのいじめ被害者の両親のように、せっかく亡き我が子の良き思い出や生きた証などに心寄せることができる選択肢(可能性)がそこにあっても、一切目隠しされてしまう。

 理屈としてはそれほど難しいことではないんだけど、これがなかなか気付けないんですよ。

 人はものすごくショッくなことがあると、実に簡単なことすら自力で気付けない。

 今回の映画のお話のケースでは子を失った両親は、たまたま会った「悼む人」に、本当の息子の悼み方に気付かせてもらえた。犯人や世間を憎むあまり、息子を思い、息子と過ごす時間がなくなっていたという当たり前なことを教えてもらえた。

 やはり、人生で大変なことが起きてテンパっている人に、こういう「善意の第三者」の存在はありがたい。彼らは別に冷たいわけではないが、他人だけに客観的だし。ごく当たり前のことに気付けない自分をサポートしてくれるから。



 あなたの人生はいかがですか。

 何か、大きなエネルギーを取られている懸案はありますか。

 そのことのせいで、何か忘れているような、気付けていないようなことがあるかもしれません。そういう時に効果的なのは、誰かとしゃべることです。

 その場合の誰かとは、問題の関係者であってはいけません。下手にあなたの事情を知っている人は向きません。

 そういう人はあなたに同情してくれるし、愚痴の言い合いですっきりするならそれもいいでしょう。でも「気付き」を得たいなら、問題が重すぎるほど関係者や身近すぎる人物を選んではダメです。

 何かに煮詰まった時、人は旅に出たくなる。自分を知っている人のいない街を歩いてみたくなる——。

 それも、分かる気がしますね。  



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『スピリチュアル映画評論』にも同じ文面の記事を掲載しています。

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