美味しいお茶の淹れ方

 中谷美紀主演の映画で『繕い裁つ人』という作品がある。

 今回この映画を話題として取り上げるが、別に映画全体の評価や感想を述べるものではない。作中のあるたったいち場面がとても心に残ったので、それに関することだけを書きたい。



 主人公である洋裁店の店主・市江(中谷美紀)が、高校時代の恩師である泉先生(中尾ミエ)の家を訪問する。「久しぶり、よく来たね」と出迎えた先生は、市江にこう尋ねる。

「ちょっとは、美味しいお茶も淹れられるようになったのかな?」

 市江は洋裁のプロであるが、他のことはからっきし不器用なのだ。

「そ、そりゃお茶くらいは……」 

「じゃあ、美味しい茶を淹れるためには、何が必要か分かる?」

 そう聞かれて、市江はちょっと思案顔になる。

「えっと……真心、かしら」

「あのね、気持ちだけじゃダメ。水の沸騰時間、茶葉の蒸らし時間。経験、もしくは綿密な研究が必要なの。それをやるのに真心が必要、ってこと」

 このやりとりは本当に一瞬のことで、この後話題が変わってしまいこの話題はこれっきりになる。でも筆者は作品の大枠でのストーリー以上に、ここの場面が他より強く印象に残った。



 スピリチュアルでは、目に見えること以上に「意識」「心の世界」を大事にする。

 そのこと自体は、良いことだ。ただその大事にするというニュアンスが、人によって色々だ。

 ある時期「ありの~ままの~」 という歌の歌詞にある言葉の流行とともに、同じ心を大切にするというのでも、どちらかと言うと『過保護』と指摘してもいいようなレベルで、おかしな自己受容をする人が増えてきた。

 何でもかんでも、自分を嫌がらず受け入れればいいというのは度が過ぎる。

 やはりはっきり改善すべき部分、そのままでは良くない部分というのは誰にでもあり、それは人生に疲れた時などは無理に挑まななくてよいし、元気になってからでよい。ただ「自分のすべてを受容し、問題などないかのように魔法で消した気になる」のは逃げであり、誤魔化しである。

 それぞれの個がもつ人生ゲーム上のクリア課題に関して——



●いつだっていい、ゆっくりでいいというのはこの世界の優しさである。

 ただ、そうは言ってもいつかは絶対やってもらう、というのはこの世界の厳しさである。



 スピリチュアル指導者たる者、相手を見極めて「今、懸け時なのか」「まだ早いから正面勝負を避け、気力を充実させ力を付けさせるのか」を判断して、バックアップできるべきである。

 もちろん、最終的には本人の決断であることは言うまでもない。しかし導く者、相手に頼りにされる者としては「あなたはあなたのままでいいよ」という癒しの部分だけでなく、時だと思えば多少は厳しく奮起を迫る思い切りも必要だ。

 最近は、オールオッケーオール受容の、ゆるいスピリチュアルも増えた。その分敷居が低くなり、居心地がとりあえずいいので人気を博するだろうが、そこに群がる人が本当の「幸せ」をつかめるかどうかは、甚だ疑問である。



 甘い基準の自己受容では、結果を問わない。

 たとえば、受験を頑張った。でも、結果として落ちた。その場合に「頑張ったんだから」「結果よりも、その頑張りが宝物」という話になることがある。

 この世に蔓延する「成果主義・実績主義」への反発として、この「過程が大事」「頑張ったその気持ちが大事」という方向に、人の心は動く。

 もちろん、ある面での正しさはある。しかし、もろ手を挙げて「まったくの真理」だとしてしまうと、行き過ぎになる。

 そればかりではこの世界に、特に優れたものや一流のものが遺産として残っていかなくなる。なよっとした腑抜けばかりの世界になる。



 確かに、この世界は思い通りに行かない苦の世界であるので、いつ何時でも実績でもって人を評価していたのでは、世界がギスギスして潤いもへったくれもなくなる。

 だから、ある程度のケースにおいては、結果を厳しく問うよりも相手の「気持ち」を尊重し、評価してあげる世界が当然あっていい。

 しかーし。それは、時と状況によるよ。

 一期一会の瞬間の連続としての今においては、実に無限の種類の違う状況がある。

 目に見える成果が厳しく問われてしかるべき瞬間もある。いや、言い方を変えれば——



●気持ちがあるなら、それに即応した行動があってしかるべきである。

 実績を伴わない本当の気持ち、『真心』なんてウソだ。

 気持ちがあるから、動く。必死に成果を出す。その観点からは「気持ちだけはあった。でも何もできなかった」なんて甘えである。



 この言い方だけでは少々きついので、次のように言い添えてみる。

 今言ったのはあくまでも理想である。だから、必ずしも目に見えた成功という「明らかな実績」がなくてもよい。

 が、ただ失敗したとしても「行動に移した」「ぶつかった」というのは絶対あってほしい。その上で、やったけどうまくいきませんでした、にしてほしい。

 欲を言えば、それを踏まえてさらに「次の時にはこうやってみます」と言えてほしい。ただ次のようなセリフだけは、避けたいものである。



●行きたい気持ちはあったんだけど、行けなかった

 しようしようとは思ってたんだけど、やっぱりやめた



 気持ちがあったなんてウソ。行きたくなかったから行かなかったのだ。

 したくなかったから、やめたのだ。

 体面を気にして、自分を飾らなくてよろしい。



 冒頭の映画の話に戻るが。

 美味しいお茶を淹れるのに、気持ちだけではダメというのは「真心があるからこそ、相手を喜ばせたい。本当に美味しいお茶を飲んでもらいたい」という思いが、その人を「お茶をいかにして美味しく淹れるかの熱心」に駆り立てる。

 気持ちだけではダメというのは、言いかえれば気持ちがあれば行動もあってしかるべき、ということ。もちろん、個人で器用不器用など、もって生まれたセンスの差異や経験の差、あるいは知識があるないの差で、成果にはバラツキが出るだろう。それは仕方がない。

 ただ、本当に思いがあるならそこには動きがある。その動きの結果がプラスであるべき、とするのが成果主義。

 動きがあれば、それはプラスの結果になるに越したことはないけれど、結果がどうでもそれは挑戦したのだから成功の萌芽であり、決して成功の反対ではない。それがまさにスピリチュアルであり、自己啓発であり、人生哲学。



 スピリチュアルは人を受容していいし癒してもいいが、「行動があれば気持ちはあったと認め、成果は問わない」程度の優しさにしてほしい。そこで「行動が伴わない気持ちなんてウソだ、ってそんな厳しいこと言われても……」とか、「そんなしんどいこと言わないで!」とあなたが言うとしたら、あなたを救えるのは現時点ではスピリチュアルではなく、心療内科や精神科の出番である。

 スピリチュアルは、生きる気力のない者への救済手段ではない。特に悟り系は。

「生きようとする者」への励ましと後押しを与える場である。立ち上がる気力さえない者は、何かする気になるまで寝てたらいい。



 気持ちだけでいいなら、筆者は日々皆さんへの愛(思い)を念で飛ばして、あとは好きに遊ぶ。でも私は、目に見えないものをそのままにしておかない。

 せっかく物理次元に生きているのだから、『具体的な形にする』ことが生きる意味だと知っている。だから今日も、こうやって記事を書く。思いを行動に変える。

 その成果は「売れる」とか「人気が出て広まる」という観点からは、ビミョーだろう。でも私は、そこは別にいい。

 日々行動を続けられるということで、今日も私の気持ちは、真心はウソではないと確認できるのだから。

 今は、日々それを感じることができればいい。

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