落差

 昔々、片田舎に仲のいい若い夫婦がいた。

 愛し合い幸せな日々を送っていたが、たったひとつだけ問題があった。

 それは、貧しさであった。

 男は、王のいる城下町に行けば、ましな賃金が手に入ると考えた。

 男は女を説得し、しばらくの間出稼ぎに行くことにした。

「なぁに、冬を越せるだけのお金が稼げたらすぐに帰ってくるさ。待ってろよ」



 都会である城下町にやってきた男は、案外うまくやった。

 たまたま街で出会った王の近衛隊の隊長に、屈強そうなのでスカウトされる。

 彼はいくさで武功を挙げ、王の目にも止まった。

 異例の早さで出世し、ついには王の側近となった。

 家・財産・土地を与えられ、都会の美女も欲しいままに抱けた。

 男の目つきは、初めてこの地にやって来た時とは変わっていた。

「オレは、もっと上を目指せる!」

 いつしか残してきた妻のことも忘れ、連絡を取ろうともしなかった。

 


 そのことを、面白く思わない人物がいた。

 そもそも彼をスカウトした、近衛隊隊長である。まさか目をかけた人物が、短期間で自分より上の立場になってしまうとは思わなかったのだ。

 プライドを傷つけられた彼は密かに、男の暗殺を計画。

 刺客が差し向けられるが、命からがら男は逃げる。命は助かるが、だからといって隊長が待つ城にのこのこ戻るのは自殺行為と言えた。

 それまでに築き上げてきたものを失うのは惜しいが、命には代えられない。男の足は自然と城から遠ざかり、気が付いたら故郷の田舎に歩を進めていた。

 妻に別れを告げてから、実に5年の歳月が流れていた。



 5年前と変わらない田舎の風景と、自分の家が見えてきた。

 家には明りもともっている。 

 さすがに男は、家に入るのを躊躇した。

 5年も音信不通だったことを、どうにもいいわけできないからだ。

 責められて当然だ。もしかしたら、都会の女ほどではないがこの辺りでは美人と言えた妻だ。5年も行方不明の夫に愛想を尽かした結果、再婚相手が家の中にいたとしてもおかしくはない、とも考えた。

 今更、恥ずかしかった。でもやっぱり、会いたいという気持ちが勝った。

 男は、家のドアを開けた。



「おかえりなさい」

 まるで、朝方出て行った夫を夕方迎えるほどの自然さで、女は笑顔で夫を迎えた。

 男は自分を責める言葉すら吐かない妻に面食らったが、それでもうれしかった。

「俺はお前に謝らなきゃならない。聞いてくれるか? この5年間に……」

 女は話を遮って言った。

「いいの。またあなたと出会えて、こうして抱き合えたんだから、思い残すことはないわ——」

 男の首に抱き着いてきた女の体が、次第に透けていく。

 「ちょっと待て。これは一体どういう……」

 どういうことだ? と最後まで言えずに、女の姿は消えた。

 それと同時に、家も消えた。

 緑豊かな田舎が、一瞬にして焼けた戦場跡になった。



 実は二年前この場所は戦場になった。

 将軍の一人として別方面に派遣されていた男は、この事実を知らなかった。

 女は、二年経っても変わらず男を待ち続けていた。

 しかし、戦争に巻きこまれ、家は焼け女は死んでいた。

 でも彼女は、それでもあきらめなかった。

 霊となってさらに待ち続け、5年目。目的を達した女は、満足して消えて行った。

 妻は自分を恨んでもいず、すでにゆるしていた。その事実に、男は何を思っただろうか。その後、彼はどう生きたのだろうか……

 誰も知らない。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンも同じような体験をした。

 世間から辛い仕打ちを受け、人を信用できなくなっていた彼は、刑務所から出た後、親切にされた神父の家から銀の食器を盗む。警官に捕まった彼は、神父の前に突き出される。

「あなたの食器を奪ったのは、この男でしょうか?」

 神父の返答は、ジャンには耳を疑うものであった。 

「ああ、それは私があげたのです。遠慮深い人ですねぇ、どうして燭台も一緒に持っていかなかったのです?」

 魂を打ち砕かれた彼は、後に事業を興し人のために生き、「マドレーヌ市長」として人望を集める。



 一般的には、人を根底から変えてしまうこの力のことを「無条件の愛」と呼んだりする。「真実の愛」 という言い方をすることもあるだろう。

 しかし、筆者流にはちと違った表現になる。



●人を揺り動かす力の正体は、『落差』。



 10メートルの高さから落ちるのと、100メートル高さから落ちるのとでは、どちらが衝撃が大きい? 端と端を結ぶ線の長さが長ければ長いほど、大きな力が働くことになる。

 少々のことなら、ゆるされてもまぁ「ありがとう」とお礼を言う程度のことで、その人の人格変革までは引き起こさない。せいぜい、一定期間満ち足りたハッピーな気分になる程度である。

 しかし、本来ゆるされるレベルでないこと、責められてゆるされなくて当然なことをゆるされてしまった場合。その「落差」はものすごい摩擦エネルギーを生む。

 その水爆級のエネルギーミサイルの洗礼を受けて、平常心でいられる人間はほとんどいない。ある意味、気付きが起きて当たり前である。



 この手のお話を聞いて、「やっぱり愛って大事だよね」という話になりやすいだろう。でも、具体的に「愛」というものがあって、それが何か仕事をして人を変えるということではない。あくまでも「ゆるされるべきでないことをした」「でもゆるされた」という、この二つの事象を結ぶ直線距離が途方もないほど、人を根底から変えてしまう落差エネルギーとなるだけである。

 だからこれは、悪い方(ネガティブ方面)へも応用できてしまう。

 本来、褒められたり喜ばれたりしていいことなのに、評価されなかった。軽蔑された。そのように「本来こうであるべきと思った評価があって」「でもそのように他者から扱われなかった。それどころかバカにされたり叱責されたりした」という場合。そのマイナス方向での『落差』は、その人を復讐の鬼のように変えることができる場合がある。



 イエス・キリストの十字架の話が、究極の愛とゆるしの話として語り継がれているのも、その本当の原因は「愛」という代物よりも「落差」が生みだす心理的マジックである。

 だから、人を根底から変えたければその人物に「落差」を見せればいいのだ。

 ただし、これは「こうしよう」というような意図をもってしては成功率が低い。

 自然に、素直な気持ちで、が大前提となる。でないと人の心を動かしにくい。

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