依存あれこれ

 仏教系の小話。

 道端にホームレスが座っていた。

 そこへ僧が通りかかった。

 僧は憐れに思い、お金をめぐんだ。

 ホームレスはお金を受け取ったがニコリともせずお礼を言うでもなく、面白くなさそうな顔のまま。

 僧の方に注意すら向けないホームレスの態度に、僧は少しばかりムッとした。

「お前は、お金をもらってうれしくないのか」

 すると、ホームレスは僧に一言。

「お前は人にものを与えることができて、うれしくないのか」



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 筆者は、時々コメント欄の扱いのことで苦情をいただく。

「間違いなく書き込んだはずなのに、なぜ私のコメントは不掲載なのか」 と。

 明らかな批判をしたのなら、載らなくてもまぁ理解はできる。でも、少なくとも書いたのは賛同の意見だし、好意的なコメントのはずなのにどうしてか、と。

 私の中では、明らかに気分の悪くなる口汚いコメント以外に、ふたつ不掲載にしがちなものがある。



①筆者の判断基準において、度が過ぎて好意的、賛同的なコメント

②「まったく同感です」 「その通りだと思います」 だけのコメント



 時として、度が過ぎて好意的なコメントはアンチよりも危ないことがある。

 スピリチュアル発信者は、芸能人ではない。したがってそういう類の「好意」はいらない。「悟り」 の世界を巡る人間関係で、それは役に立たないどころか、むしろ危険ですらある。

 手放しで褒めてくださるもの、しかも思い入れがすごくてめっちゃ長文になる方。それは読んでいて、うれしいと言うより何だか背筋がゾワゾワする。そういう私の警告アンテナに引っかかるものは、たとえ賛同でもコメを載せないことがある。

 あとは、単なる同意でしかないコメ。

「私もそう思います」 と言ってくれたところで、それが何の役に立つ? 筆者にしたら、だから何? である。

 私にとってコメント欄の意味とは「ブログ主が出せない部分に光を当ててくれるコメント、ただの賛同でも批判でもなく、読む者に別の気付きのヒントを与えてくれる可能性のあるものが寄せられる」ことにある。

 賛同コメントを集めて、「ほら、私の言っていることは的を射ている」と悦に入りうれしがるためにあるわけではない。

 先ほど挙げた①と②の理由以外でも、説明の難しい基準が私には無数にあり、今ざっくりと言ったがやはり細かいところでは「掲載・不掲載はケースバイケースである」としか申し上げようがない。



 ところで、筆者はなぜ冒頭に僧とホームレスの話を載せたか分かりますか?

 今回の「コメント不掲載を気にする件」と構造が同じなのだ。

 本来、「与える」とは何か。与えることの本質は何か。これは「愛」という話にも通じるが——



●「与えること」 そのものが目的のすべてである。

 与えたら、もうそれですべての望みが完結するのが、真の「与える」である。



 たとえ話の僧は、そういう意味で本当に与えたのではなかった。

 実は、僧のエゴであった。

 結局、ホームレスに感謝されることで「人に施しをする、素敵な自分」を確認したかった。でないと、無反応のホームレスにムッとするはずがない。

 いや、かえってこの僧はホームレスに感謝されなくて幸運だった。もし普通に感謝されていたら、この僧は深い気付きの機会を失うことになっただろうから!

 自分は何て人間として上等なんだ! と勘違いしたまま偽りの満足を味わい続ける。自分が実は何も変わってはいないことを知らないままにね。

 私が読者に媚びないで、付けられたコメントを不掲載にしたり辛口なことを言うのは、あえて親切からだ。

 沈黙も「沈黙という名のメッセージ」であるし、コメント不掲載もある意味メッセージだ。私に「なぜ載せない」と問うより先に、自分で考えてみろ。

 でないと、スピリチュアルやっている価値ないべ? 手とり足とり、答えを教えてもらわないといけないのかい?



 これもひとつの「依存症」である。

 僧は、ホームレスに感謝してもらわないと、施す喜びすら自力で感じられなかった。つまり、ホームレスの感謝に「依存した」。

 依存とは、ある何かがないと、それ自体が自力で存続できないことを言う。

 ゆえに見返り、あるいは感謝が返ってこないと文句が出るような善行は、ハナクソである。その視点からは、筆者にコメントを寄せる人で、私の扱い如何で腹を立てたり、気分を害する者がいたら未熟者である。

 一般人ならいいが(一般人ならこんなところに意図なくたどり着くことはないだろうし、読まないだろうが)、スピリチュアル実践してますってやつがその程度だったら、スピリチュアル界の未来は暗い。

 私の反応次第であなたの心が揺れるなら、あなたのコメントはそれほど誠実なものではなかったというのが、厳しいようだが現実。

 私に受け入れられないといけない、という条件付きの「善意」の押しつけであったということ。

 


 目を覚ましたまえ。外部の何かの望ましい反応がないと幸せにすらなれない、スピリチュアル実践者よ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る