最後の砦
島田紳助という有名人がいる。大物だが、不祥事のせいで現在は世間の表舞台からは身を引いている。
彼がかつて、いじめについてある番組で語った内容がたいへん話題になったことがある。自分の子ども(娘さん)がいじめられた時に、いかに解決したかを語っているのだが、その内容が「素晴しい」と世間から一定の評価を得た。
詳細は省くが、これから島田紳助が取った驚くべき解決法を説明する。
彼は、娘をいじめた子どもを自宅に呼びつけた。
そして、いじめた子を責めたり、娘の味方をしたりはしなかった。
●なんと、自分の娘を叩き続けたという。
いじめた子を、一切責めない。
そして次のように言い放つ。
「こいつ(自分の娘)が悪いんや。いじめられる方にも原因はある」
「原因をつくったのはお前。お前がむかつくことしたからこうなったんや」
そう言って最後の極めつけは——
イジメていた子供に 「まだムカついているか? もっとやったほうが良いか? ごめんな。こいつが悪かったんや」と謝った。いじめっ子が「もういいです」と言って帰った後は娘に相手への謝罪の手紙を書かせたという。
なんと、この話が世間から絶賛されたのである。あるスピリチュアル業界で多少なりとも名のある方も、この記事を取り上げて褒めていた。
その人物は自分の会社員時代の経験になぞらえて話をしていたが、子ども時代のいじめと、大人になってからの社会での話を勝手に相似形だと決めつけ重ねていらっしゃるので、あきれた。同列で語る内容ではない。
もちろん、いじめ問題などというものに、絶対の正解はない。
私が再三再四このブログで述べてきたように、誰にとっても絶対に当てはまる公式(法則)、すなわち共通普遍の真理などというものはない。すべては、二度とない一期一会のその瞬間があるだけ。真理は、その都度の場面の中にしかない。
そういう意味で言えば、紳助の取った方法はある状況での、ある面での「有効な手法」だったとも言える。ただ、世のすべての親たちに当てはまるかといえば、そういうことはない。
私が多少気になったのは、この記事に賛同する人のほめ方がちょっと気持ち悪かったこと。手放しで褒めるというかね。よっ、日本一!みたいな。
紳助を英雄視するかのようなね。無批判で彼の行動を褒めているのが怖かった。
筆者は、親としてこのやり方には賛成できない。はっきり嫌いだ。もちろん紳助がではなく(笑)このやり方自体が。
●島田紳助の取った方法は、「心理戦略」である。
つまり、勝ちを取りに行くことに特化した確信犯的手法である。無意識に、親の素直な情でこれができる人はかなり屈折している。
この方法のすごいところは、どちらが本当に悪いか、どちらに非があるかを問わないところである。とにかく、「相手に悪いと思わせる方法」である。
悪いと思うもの、おかしいと思うものに「おかしい」と言い、「お前が悪い」「もうやめてくれ」というのは、決まりきった加害者・被害者間の話し合いのパターン。
相手も当然、敵地(アウェー?)に呼びつけられたのだから、かなり構えているはず。ああ責められる、ああきっと怒られる——。呼ばれたいじめっ子は、自分を守るために色々とイメージトレーニングするだろう。(反省してない場合)それで対策を色々練るのだ。
たとえば、相撲とかでも時々あるが、「フェイント」というのがある。
単純に「普通は向かってくる」と思うので、立ち合いで思いっきり飛び出す。でも相手が正面からぶつかってこず、左右に逃げられたら? 予想を裏切られ、読みが外れてコケて負ける。
紳助の勝ち方は、これと似ている。いじめっ子の読みの裏をかいたのだ。
人間、自分の予想していない状況が展開すると、一種の茫然自失状態になる。
しかも、相手はまだ子どもだ。大人のように、一瞬はひるんでもまた状況への適応策を冷静に再検索して体制を立て直すには、まだまだ幼い。
紳助のような、海千山千の人物ならば、こういう一見ありえない方法を取っても、それでもちゃんと「親の愛の表現」にはなっているのだろう。
でも、素直な一般市民に彼の真似は危険だ。これは、下手に参考にするとあなたの親子関係が破滅する。
「功を奏することもまれにある特殊例」として記憶にだけとどめておいて、実行しない方が無難である。
たとえば、キリスト教はなぜこんなにも世界中に広まった?
もちろん、色々な要因が絡み合っているので、一口には言えない。
しかし理由のひとつとして間違いなく挙げられるのは——
●自己犠牲の美徳
これである。
人は、地球に誕生してこのかた、ずっと争いというものを続けてきた。
自分は正しい、という側から「悪いと判定される対象」を責め続けてきた。
それは人類の
自分はまったく悪くない人物が、一番最悪な十字架はりつけ刑で処刑される。本当なら、目の前の人たちを恨み、ののしってもおかしくない、責められないところを 『父よ、彼らをゆるしたまえ』と言って、まったく目の前の人間たちのエゴを不問にしたのだ。
これだと、悪いやつはさらに恥の上塗り。一方聖人は、自分の悪くないことまで引き受け、そしてゆるす——
これ、ちょっとでも正気のある人間なら、白旗をあげますよね。分かった分かった! オレが悪かった! ちゃんと責めてくれ! ってね。
つまり、相手に「悪かった」と分からせる最高戦略は、悪い相手をあえて責めないこと。そうすることで、相手の罪悪感を刺激する。本当はこちらが責められてしかるべきなのに、被害者が自分側を罰している。こちらをゆるしている。その認識が、相手を「いやいや、こちらが悪かった。もういいです」と言わしめる。
キリスト教の広まりの功労者は、罪悪感である。圧倒的な「善」「きれいさ」を見せつけられ、こっちは恐縮するしかない、という。
この方法の最大の欠点は、ちょっとでも相手に反省の心がある場合にしか効果がないこと。相手が、本当に精神病理学で分類される勢いの領域で病んでいたり、独自の世界観が強固に構築されていたら、まったく効き目なし。図に乗られるだけである。
最近は、成育歴や家庭環境が複雑化し、一筋縄ではいかない子も増えているから、こういう手法はリスクが大きすぎると申し上げる。
あと、私が最大に気にらない点を申し上げると——
●親は、子どもにとっての最後の砦であるべきである。
どんな時も、子どもの味方であるべきである。
しかも、「分かりやすい」味方であるべきである。
島田紳助は、「いじめられるお前に原因がある」と、娘を殴った。
筆者なら、絶対にやらない。なぜなら、上記のように考えるからである。
親子、という絆が美しいのはなぜ? それは、利害を超えるからでしょ。無条件に愛するからでしょ? 善悪関係なく、子どもはやはり子どもだからでしょ!
世界中の誰がお前を責めても、私だけはあんたの味方だよ——。
そのメッセージこそが、どんな立派な宗教的・スピリチュアル的真理よりも価値あるものではないか。それ以上のものがあるのなら、教えてほしい。
今回のこの話は、その逆を行っている。
反論もあると思う。
そういう、娘に「お前が悪い 的な振る舞いをしながらも、そこには「そうしてまで本気でいじめを解決したい」という親心がちゃんと脈打っている、という指摘はあろう。娘を殴ったことも含めて、そこには親の愛があるのだ、と。
だから、そう考える方々からすると私は「ものの見方が浅いな!」と思わるのかもしれない。
●浅くて結構。
いじめっ子の前で娘を責める親が深いというなら、私は深くなりたくない。
イヤなもんはいや。
傷付いたもんは、傷付いたのだ。
やめてほしいもんは、やめてほしい。それでよかろう?
大人同士の関係でこれをやるなら、まだいい。
先ほど言ったスピリチュアル畑のある人が、会社勤めの頃の話を思い出して重ねていた話をしたが、ある程度の社会経験をし、自分なりの見方考え方が固まってきた耐久性のある大人なら、このやり方で良いケースも、もちろんある。
●子どもに大事なのは、「分かりやすさ」である。
娘を責めて逆にそこに「愛」を見ろ、というのは子どもには高度すぎる場合がある。たとえ紳助なりの真実・真心がそこにあったとしても、これは難易度の高い模擬試験でA判定を取れ、というくらい酷な試練である。
はっきり言って、分かりにくすぎる。
これを絶賛する人は、「いじめている悪い側を責めるばかりのやり方でなかなか効果がないことに飽き飽きしてる、焦燥感を感じている人々が、正しい側から非のある方を責めるという古色蒼然とした当たり前のやり方に疑いをもたされただけ。また、責めて当然の側がその権利を行使せずむしろ放棄するという状況を見せつけられることで、伸介との人間の格の違い(?)を見せられより彼をすごい人間だと感じた」 というだけ。
私は、なんと言われようと「分かりやすい」「誰の目にも明らかな」子どもの味方でいたい。一歩捉え間違われたら、関係が崩れかねない賭けになどでない。
もちろん、状況はすべて一期一会なので、無限の可能性の中では紳助のようにすることが最善だったシナリオがあるだろう。でも怖いのは、それが何か他の人までが真似をするような「成功の公式」のようになってしまうことである。
この多様性と個別性に満ちた世界で、規格統一の定規を精神世界に持ち込む愚は避けてほしい。
『女王の教室』という古いドラマがある。
この作品に登場する鬼教師が、裏でクラスメイトをひどくいじめて平然としている生徒に、向き合う場面がある。その男子生徒は、先生に聞く。「なぜ、人を殺してはいけないのですか?」
先生は、その子を滅多打ちに殴りまくる。
「痛いでしょ? 苦しいでしょ? 死ぬのが怖いでしょ? なぜいけないかですって? あなたが今感じている通りのことよ。苦しいでしょ? 痛いでしょ? 怖いでしょ? だからよ!」
確かに、当事者でない第三者からしたら、褒められたやり方ではない。問題は大ありである。だが、本質は突いている。
●ここではフェイントを使っていない。
悪いものは悪いとし、そこを譲ることなく真っ直ぐな感情をぶつけている。
被害者の味わった立場を、何らかの形で理解させることが早道。
紳助の取った方法では、相手の人間性に訴えることはできても、自分は悪かったという奥底までの自覚につながるかどうかは、まったくの賭けになる。
もちろん、この記事では「いじめる方が絶対的に悪い」という前提で話している。
だから、「いじめられるほうが悪い(場合もある)」と考える方に、この記事は向かない。あなたがスタンスとしてそちらの場合、筆者に同意できなくて当然で、まったく正常です。
おかしなものを読ませましたね。お帰りはこちらになっております。
いじめる方が悪い。人間は、相手がどうでも、いかなる理由でも「いじめない」という選択ができる立派な生き物だ、と信じていますんで。
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