世界中セールスマンだらけ
ある時筆者が「なぜ聖書にはイエスの少年期、青年期の記述が抜け落ちているのか」について自分なりの見解をメッセージしたことがあった。
聖書に親しんだ者なら分かると思うが、福音書全体を通してイエス誕生のあとから30才で
筆者は元信者だったがその後やめて、聖書批評学や考古学・歴史学も含めた実際的な立場からの見解を書いている。無論、聖書の言葉をそのまま読むのではなく書かれた時代背景や、イエス本人ではない聖書記者が伝聞で書いたが故のズレなど考慮するため、信者さんが聞いたら嫌われるような内容の部分もある。
案の定というか、おそらくクリスチャンの方か聖書に好意的なスタンスの方だと思われるが、私にコメントを寄せてきた。
詳細は割愛する。言葉遣いは丁寧だが、結局言いたいポイントは「聖書は神の言葉なので素直に読んだ方がいい」ということだろう。
その方が、「恵みが受け取れる」と。← クリスチャンが良く使う言葉
さらにご丁寧に、その信念を強化してくれる動画までリンクを紹介している。
もちろん、良かれと思ってのことであろう。本人に悪気はない。しかし、これは筆者に言わせると最悪の行為であると言っておこう。
私はこういうやつのことを、「スピリチュアルセールスマン」と呼ぶ。
セールスマンと一口に言っても、そのカバーする範囲は広い。
ここでは意味を限定して。人の家のインターホンを押してくる、個別訪問販売のこととする。
皆さんも、迷惑に感じたことはありませんか? 天ぷらを揚げていても、子どものオムツを換えているタイミングでも、おかまいなしに来る。こちらは郵便物とか宅配とか何か大事なものだと困るので、とにかくインターホンに出る。
すると、新聞取ってくれとか、牛乳屋とか。生命保険も来る。ただ最近は、具体的に何かモノを直接売ってくる人は減った。
あと、エホバの証人。結構です! 宗教お断り。セールスお断り。
欲しいものは、自分で探します。見つけます。私もそのくらい自分でする力はあります。それとも何ですか、あなたはお客様にその力がないとおっしゃる?
だから「私が教えて差し上げないと、この素晴らしい商品に触れる機会を失い、損をしてしまう! それは可哀想だ!」と思うのかしらん。
ブログってのはさ、そのブログ主のものなんよ。その人だけの王国なんよ。本書だってそう。
発信者が言いたいことを気持ちよく言うためにあるのさ。
そこに、「それはちがう」とか「こう考える方がいい」とか他人様に直接コメントをぶっ込んでくるのは、訪問販売と同じ。相手の都合もお構いなしにやってきて、自分の良かれと思うものを、他人にも絶対にいいと盲信して薦めてくる。
筆者もたまに他人様のブログなどを読んで、考えに同意できなかったり、文句を言いたくなったりすることはある。でも私は絶対、よそにコメントを残してこない。自分ちでやる。つまり、私自身のブログ記事や本書で言う、ってことね。
その記事に、話題に取りあげたそのブログの発信者が気付かないなら、一生私が批判したことなど知らないでも全然構わない。言いたいことを言うがために記事を書いたのであって、相手が聞くべきとか、聞いた上で間違いを正す、などということはどうでもいいことだからである。筆者が何かを批判する時、相手が変わることを期待するとか全然ない。
ただ、縁があって読む人が読めばいいのであって、読んでくだらないと思われたら、それはそれでいい。万が一、世界に一人でもその記事のおかげで気持ちが軽くなった、いい気付きをもらったという人がいるなら、それだけでいい。大勢がくだらないと思おうが、知ったことではない。
冒頭で話に紹介したコメントの主は、自分の信念から良かれと思って「私が変わることを期待して」コメントを送ってきているはずだ。そうでもないと、わざわざ人様のところに文章を書く労力を使わない。
聖書は正しい、という信仰の立場から。そういう人種からしたら、私のような読み方をする人間は恵みを逃がしている(可哀想)なのだ。可哀想なので、善の心(神の御心?)から何とかしてあげたいと思うのだ。
これこそ、サタン(悪魔)も真っ青の「お節介」という弩級最強破壊兵器であるのだが、信じ切っているモードの人間は自分ではそこに気付けない。
私は、こう考えている。
●宗教やスピリチュアルは、一切宣伝しなくていい。
意図的に広めようとする努力をまったくしなくていい。なぜなら、本当に誰にとっても良いものなら、口コミで自然と広がっていくからだ。
しなくていい、なのでするなとは言わない。ただ、やるならひとつだけ守ってほしいエチケットがある。
不特定多数に発信するならまだ害はない。聞いた人が誰からの干渉も受けず、落ち着いてその情報の取捨選択ができるから。捨てても、誰も干渉しないし文句を言わない。しかし、やめてほしいのは一個人をつかまえて話を聞かせること。
人と向き合った場合、割り切って冷静に判断できる人ばかりでもないのだ。受け入れるのかそうでないのか、その返答を待つあなたが近くにいると、いい人ほどできるだけあなたの意に沿う返答をしたほうがいいのか、と考えてしまう弱さが生じてしまうから。
気が弱くて、強引な友人に誘われて断れず、宗教に入った人物を数人知っている。
たとえ盲信でも、何かを疑いなく信じ込むパワーというのはあなどれない。
その影響を受けたら、主体性に欠ける人、自分に自信がない人、ぐいぐい引っ張ってくれるタイプの人にあこがれのある人なら、流れにのまれてそのままついていってしまう可能性がある。
たとえ最終的に「結構です」という判断になっても、そこまでに要らない時間を食う。しなくていいいやな思いもする。
思想信条のことで他人に直接介入されることほど、不快なものはないだろう。
すべての人には、力が備わっている。
自分に必要なものに自分で気付き、探す力である。
もちろん、悩むこともあるし、自分を見失う時期もある。何をすべきなのか。何を信じるべきなのか——。答えが欲しい時期もある。
他人がなんかそれらしいことを言ってくれたら、すがりたいタイミングもある。
でも、あえて言う。
●あなたは、信じるものや考え方のことで他人に一切意見しなくていい。
(他人から先に意見を求められたときは、もちろん別である。)
そして、あなた自身もそうされない権利を有する。
どうしても言いたいのは分かる。
わたしもかつてクリスチャンだった。新興宗教もやった。数え切れない人に街で声をかけ、伝道をした。
その経験を踏まえて、言うのである。他人を変えようとするのは、やめたほうがいい。もちろん、できればの話である。
まだ幼い段階では、正義感や使命感に燃えて「この真理を一刻も早く、一人でも多く伝えたい!」と力むのは、精神的「若さ」ゆえの過ちだ。
過ちは悪いものではなく、そういう経験を繰り返して、人は学ぶ。学ぶ必要のある人は、仕方がない。私もそれをゆるす。
ゆるすが、ただやらないほうがなおいいのは、当然である。
筆者が日々本書を更新する意味は……実は、自分でもよく分からない (笑)。
なぜか毎日、手が動く。キーボードに指が這っている。
あんた主体性ないのか! と言われようが仕方がない。体が自然に動くもんは動くのだ。
目的はない。あえて言うなら「書くこと自体が目的」。
世界にどうなってほしいとか、人にどう変わってほしいなどという願望はない。ただ、私の心のアンテナに届いたことを文字化するだけ。
他人のブログに、ブログ主の考えをを否定するような内容を描くのは、無神経である。自分の信念に絶対の自信を持っている人ほど、その傾向が強い。
さらに最悪なのは、その人物に悪意がないことである。よかれと本当に思ってることである。
詐欺なら、相手は「自分はウソをついている」という自覚のもと、接してくる。だから、ウソ発見器にかけてもムダな生まれついてのプロの詐欺師でもない限り、そこにつけこむ隙がある。
でも、相手が100%良かれと思ってやっていたら、アプローチされた人は影響されやすさが倍になる。そこのところは要注意。
先日も書いたが、宗教やスピリチュアルなどというものは、デパートに並ぶ商品でいいのだ。商品は、叫ばない。客のところに走り寄って「買いませんか?」などと言わない。
ただ、選ばれるのをじっと待っている。
もちろん、購買意欲をそそるように、選んでもらえるように精一杯着飾りはする。ディスプレイに凝ったり。パッケージをきれいにしたり。
もちろんそれ以前の問題として、内容で勝負なことは言うまでもない。
もう一回言う。
あなたが信じている何かがどれだけ素晴らしいかは知らないが、他人の家のインターホンを、くだらないことで押すのはやめてけれ。
新聞も、牛乳も、生命保険も、必要ならこちらから吟味して納得なものを探す。
あんたの話だけを聞いてたら、そりゃあんたの良いようにしか言わんだろうさ。でも私には、自分に必要なものを選ぶ力はあるから! 人生そのものから学ぶ力があるから。
他人にインスタントな答えを教えてもらわなくても大事なことがつかめるように、誰の人生もなっているから。
今日のところは、おとなしくお帰りなさい。
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