反逆

 昔、昔。

 昔と言えるのは、我々が時間の流れがある世界にいるからで、本当は「昔」という概念が生まれる前の、時間も前後も順番もない世界での話。



 空(くう)、というのがおりました。

 こいつは、この世界では説明のやっかいなやつでして——

 無。つまり「ない」とも言えるし、またすべてであり、それしかない全「存在」だとも言える。

 時間というものはエンドレスループなので最初なんてないが、我々に分かる話にするために「はじめ」を頑張って想定してみると、この世界の最初は「空」がただあるだけだった。

 そこには、ただ永遠の静寂だけがあった。それで、すべてが完結していた。

 何も、動く必要がなかった。その様がすでに完成形であり、何も足し引きする必要がなかった。

 分離がないから、自他という区別もない。区別がないから、主語がないので動詞は生まれない。だから、自我のないところ意思もまたなく、意思のないところ行動も生まれない。

 行動の生まれないところ、また変化も存在しなかった。



 それは、いつ生まれたのか、どうしてそういうものが生まれ得たのか、誰も知らない。絶対のはずの、何も変化が起こらないはずのその世界で、静寂を破ろうとする者があった。

 それは思った。こんなのは嫌だ、と。

 完全、絶対、永遠のその平和に、違和感と反感を持った者がいた。

 その者は、分が悪いことは百も承知で、絶対という勝ち目のないものに戦いを挑んでいることを承知で、完全な世界にひとつの穴(ホール)を空けた。

 何もない、そことここ、これと他という概念のそれまでなかった世界に、「穴」 と特定できる場所と、そこ以外の場所という区別が初めて生じた瞬間である。

 絶対なる「空」は、異物に反逆されたわけだが、これは意思を持たない。意思を持たないので、それ自体はこの反逆を鎮めたり、反逆者を攻撃したりしない。

 しないが、人間や動物の肉体が、外部からばい菌やウィルスの類が侵入してきた時、体を守ろうとして無意識に体内の細胞が攻撃するのと同じように、たとえ意思をもって行動せずともシステムそれ自体が異物を攻撃する。

 この世界が、辛いことや思い通りにいかないこと8割、で、時に生きていてよかったと思えること2割くらいと言われるのは、このせいである。

 空にそもそも意思がないので敵意もないが、本来あるべきでない「まったくの幻想」であるこの世界は、常に破滅に向かうことで本来こういうものはないという「悟り」に反逆者すべてが気付き、納得して無に還るように、人類に適度な不幸や事件を起こし、自ら「気付く」ように仕向けるシステムとなっている。

 ただ個体差があり、悟る者は一部で下手をしたら数千年・数十世代の輪廻を経ても悟らない個体もおり、という調子なので、途方もない時間のかかるプロジェクトではある。



 もしあなたが、この世界は本来あるべきではなく、空に帰すことによって間違いを正そうとする側に立てば、あなたは「正しい者」である。それが本来であるから。

 しかし、もしあなたが、たとえ幻想世界で生きることに思い通りに行かないことや不幸と呼ばれる現象が付きまとうとしても、愛する者との出会いや別れ(死別)があることを承知の上でなお、「変化の中に生きたい。物語の中でずっと動き続けたい」 と願うならば、あなたは反逆者である。

 空や根源を何か我々の「味方」のように考えるスピリチュアルは、まるで分かっていない。むしろ、我々は「完全」「絶対」「永遠」を相手に戦争をしているようなものだ。家出をした子どもが、もう二度と帰ってくるもんか! と親元を飛び出したようなものだ。

 確かに、勢いに任せて飛び出した世界は冷たく厳しく、人類全体として「そろそろお家へ帰りたいなぁ」と、飛び出したことをちと後悔し、反省してる魂も出てきているかもしれない。

 目覚めてしまった者には、それもよかろう。ブッダやキリストのように。



 でも、筆者は残ることに決めた。

 一度した家出だ。自分で生きていけない非力を認めて、ショボンと帰るのも癪じゃないか。だ~れが帰ってやるもんか!

 私は少なくとも、この宇宙の原初に、空に反逆した「何者か」の末裔だ。その反逆スピリットが、血脈が受け継がれているのである。

 最後まで、つっぱってやるさ。それが、不良の美学。



 あなたは、いつの日にか姿勢を決めねばならない。

 静寂を肯定し、静寂に向かおうとするか。それとも、最初に静寂に疑問を投げかけ、背を向ける選択をした者にふさわしく、最後まで静寂に抵抗し、この幻想である「変化」を力の続く限り継続させていこうとする側につくか。

 筆者は、体験としては前者の価値を知ってしまったが、それでも後者を選ぶ。

 さぁ、同じ共に行くからには、何が待っていても覚悟を決めるよ。

「絶対」の庇護がないと知ってもなお。最後に負けるとしたら間違いなくこっちだとはっきりしていてもなお。(根源に意思はなく、あちらに勝つも負けるもないが、マシンのようにシステムに沿った反応を返してくるその内容が、我々を絶望させるには十分すぎる)



 人間として、この宇宙に生き続けるということは、絶対への反逆を続けるということである。

 我々が「愛」と呼ぶものを向こうは解しない。それに価値と重要さを感じるのは、人間に似た知的生命体だけである。むこう(絶対、静寂)には容赦がない。人間目線に降りて「愛」を基準には摂理してこない。そんなサービス精神はない。

 それでも、負けないか。音をあげないか。

 それでも、楽しんでやるか。

 お前のところに帰らなくても、やっていけるぜぇと胸を張ってやれたら、壮快だろう。泣いておうちへ帰るのは、ちょっと悔しい。



 もう数千年は、この世界で頑張ってみない? 

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